▢ 言葉は生き物
「ら抜き言葉」ということを聞いたことはあるでしょうか。
「食べれる」「見れる」と言った言葉が「ら抜き言葉」と呼ばれています。
文法的には「食べられる」「見られる」というのが正しいらしいのですが、この「ら抜き言葉」を使っている人が多数派になってようなのです。
文法的に正しいかどうかは別にして、世の中で多くの人に使われている言葉が市民権を得て生き残っていくように思えます。
・流行のようなものもあり「あれだけ使われていたのに…」という言葉が、何年か経つと誰にも使われていないようなことが起こります。
「同じもの」なのに呼び方が変わっていくものもあります。チョッキ ⇒ ベスト ⇒ ジレ などと年代によって呼び方が代わり、
ファッションにに疎い人にとっては「ついていけない」と感じることも多いのではないでしょうか。
時代背景による変化もあります。以前は圧倒的に女性が多い仕事には「看護婦」とか「保母」などの呼び方が使われていましたが、
男性でもこれらの仕事をする人が多くなるに従って「看護士」「保育士」などと呼ばれるようになってきました。
英語でも同じことが言えます。文法的に正しくない言い方でも、多くの人によって長い期間使われることによって「市民権」のようなものを得て使用が認められることもあります。
・逆に以前に使われていた表現が使われなくなることもあります。以前は男性をイメージさせる言葉が含まれていた fireman / policeman / chairman などは
fire fighter / police officer /chairperson などの言い方に置き換わってきています。
・また、英語を母国語としない沢山の人も英語を使っています。そしてその人たちの間だけで英語を使ってやり取りがなされることによって、
間違えた表現が修正されたり指摘されたりすることもなく多くの人によって長く使われることもあります。
これによって「文法的に正しくないが、一般的に使用されている」というような扱いになる表現が多くなることも予想されます。
言葉は生き物です。ゆっくりかもしれませんが、言葉が変わり続けていることは確かなのです。
言葉は生き物
カオナシ [No Face] …文化の違い
他の人に話したり説明したりしなくても、ある程度理解したり察したりして欲しいと思ったことはないでしょうか。
親しい友達や家族の間であれば、そういったことをより感じるのではないでしょうか。
何が好きかとか、何を大切にしているか…などは長く一緒に過ごしていれば特に説明をしなくても自然とわかってくるもののように思えます。
同じようなことを、ある漫画家の人がTV番組で言われているのを聞いたことがあります。
奥さんの体調が悪いことを知っていれば、「〇〇をして欲しい」ということを言葉にして旦那さんに直接伝えなくても、ある程度察して夕飯を買ってくるなどして欲しかった…というような内容でした。
このようなことは日本だけでなく他の国でも一緒なのでしょうか。
「カオナシ」という言葉を聞いたことはありますか。
スタジオジブリのアニメ「千と千尋の神隠し」の中に出てくるキャラクターです。
カオナシは「ウー」とか「アー」とか言うだけで、意味があるような言葉は発しません。
フランスでこのアニメが公開された時に、フランス人にはこのカオナシがなんとなく理解できる存在だったようなのです。
カオナシが理解できるのであれば、フランス人の感覚は日本人の感覚と近いのかもしれません。
一方、アメリカでこのアニメが公開されると、アメリカ人にはこのカオナシが「理解できない不思議な存在」だったという話を聞きました。
「言いたいことがあれば言ってくれ。言ってくれなければわからない」というのがアメリカ人のようなのです。
アメリカでは、「言わなくても察してよ」ということは通じないようなのです。言いたいことがあればはっきり言うということが大切になります。
逆に言うと、言わないと通じないのがアメリカなのです。だからアメリカ人にとって、はっきり話さないカオナシは理解できない存在なのです。
アメリカ人と結婚した日本人から「毎日 I love you. と言うことを要求される」という話をよく聞きます。
アメリカ人は、「察するということは苦手で、言わないと理解してもらえない」と思えばこの話も納得いく話です。
アメリカ人と一緒に仕事をしたり生活したりする場合は、「言いたいことがあれば発言する」「してもらいたいことがあればはっきり言う」と言うことが大切になってきます。
アンサング・シンデレラ Unsung Cinderella
▢ アンサング・シンデレラ
Unsung Cinderella
石原さとみさん主演、フジテレビ系で放送中のTVドラマ「アンサング・シンデレラ 病院薬剤師の処方箋」の話題です。
毎回引き込まれて涙しながら観ています (2020年8月現在)。
今回は、ドラマのことではなく、タイトルの中の英単語 「Unsung [ʌnsʌŋ アンサング」について少し説明します。
興味があれば別ですが、中学生は覚える必要はありません。
辞書で unsung を調べると、[形容詞]として出てきます。「 歌われない、歌にされない」「たたえられることのない」といった意味になります。
・unsung heroes and heroines: 「称えられることのない [無名の]功労者たち; 縁の下の力持ちたち」
ドラマの内容を考えると、ドラマのタイトルの「アンサング」は「たたえられない、縁の下の」といった意味でしょうか。
「unsingの過去分詞形」という説明がないので、unsing という単語を辞書で調べてみました。
手持ちのいくつかの辞書には出てきませんでしたが、インターネットでは、いくつかのサイトが見つかりました。
[接頭語] un + sing (歌う)… unsing ⇒ unsang ⇒ unsung
※もともと unsung は「Fried Chicken 方式」で unsing という単語がもとになっていると考えられますが、
unsing や unsang は次第に使われなくなり unsung だけが生き残ったような感じがしています。
unsingに関しては全く覚える必要がありません。何かの文章の中で見かけた場合は、インターネットなどで調べれば十分です。
それにしても、石原さとみさんは、「アンナチュラル」(UNNATURAL DEATH) …2018年TBS系で放送のTVドラマ」にも
出演され「アン」で始まる TVドラマ主演が続いてますね …(^^♪
▢ 単語の輪を広げよう
・unnatural [ʌn-nǽtʃərəl]「不自然な, 異常な、 異様な, 超自然的な」
※ natural の前についている un は[接頭語]と呼ばれ、natural ⇒ unnatural のように、単語の頭(前)に付けると反対の意味になったりします。
日本語では、同じようなものに「非・未・否・不」などがあります(論理的 ⇔ 非論理的 / 解決 ⇔ 未解決 / 肯定 ⇔ 否定 / 自然 ⇔ 不自然)
※単語の後ろに付ける[接尾語]というのもあります。
[接頭語]・[接尾語] ⇒ コチラ
・look up a word in a dictionary「辞書で言葉を調べる」
Saturdays and Sundays are strong [なぞなぞ]
▢ なそなぞ(riddle)だよ
・Saturdays and Sundays are strong. Why?
土曜日と日曜日は強い。なんで?
そんなこと急に言われても…。
それなら、少し考えてみてください。
[ヒント1] Saturdays と Sundays 以外の曜日は何と呼ばれている?
少し考えてみてください
[ヒント2] strong の反対の単語は?
少し考えてみてください
[ヒント3] [同音異語語]…発音が同じでつづりと意味が異なる語のこと
少し考えてみてください
[答え]
・Because the other days are called “weekdays."
「その他の日は弱い日と呼ばれています」
[解説・単語]
・※ are called … [be動詞]+[動詞の過去分詞形] ⇒ [受け身] … [受け身]の詳しい説明は ⇒ コチラ
・※ weekday (平日) と weak
day (弱い日) をかけて、「その他の日は弱い日と呼ばれています」という意味になります。
・
・※ because [bikɔːz]「なぜなら」「…だから, ゆえに」
・※ the
other / the
others は the が付くので日本語にも「その」をつけて、「その他」になります。
・・ another/ other / the other / others / the others を整理して覚えましょう(別途説明予定)。
・※ weekday [wíːkdèɪ]「平日, 週日, ウイークデー」
・※ weak [wíːk]「弱い,壊れやすい」⇔ strong [trɔːŋ, strɔŋ]「強い, 丈夫な, 頑丈な」
・
ignore「を無視する」[ジョーク]
▢ ignore [iɡnɔːr]「を無視する」[ジョーク]
・・
・下記は、Doctor (医者) と Patient (患者) のやり取りです。患者が Doctor! Doctor! で始まるのが定番のようです。
・ジョークを通して ignore という単語を覚えましょう!
・Patient: Doctor, Doctor, everybody ignores me.
・Doctor: Next, please.
・
・患者: 先生, 先生, みんな僕のことを無視するんです。
・医者: 次の方どうぞ!
・・ patient
[péiʃənt]「(医者にかかっている)病人, 患者」「辛抱強い, 忍耐強い, 我慢強い」
・・
ignore [iɡnɔːr]「<人・物・事> を(意図的に)無視する, 怠る, 知らないふりをする, 見ないふりをする」⇒ コチラ
・※ everybody / everyone 「みんな」は大勢いるイメージですが、単数扱いです ⇒ he や she と同じように扱います(三単現の s も必要です)
・・※ [三単現] ⇒ [三人称][単数][現在] の詳しい説明は ⇒ コチラ
・※ Everybody ignores me. の代わりに Everybody is
always
ignoring me. と言うことも可能です。
・・ [現在進行形]は「今~しているところです」という他にも、always
(いつも)という単語を伴って不満を表すことができます。
・・ ・ She is always complaining.(彼女はいつも不満を言っている)
・・・※ 不満を表す[現在進行形]の詳しい説明は ⇒ コチラ
明らかにわかるものは省略「マクドナルド」「デニーズ」「ジョナサン」
[中学][高校]
▢ 明らかにわかるものは省略
ファストフード、ファミリーレストランの「マクドナルド」や「デニーズ」、「ジョナサン」などが、
日本語ではなく英語でどのように書かれているのか気を付けてまじまじと見たことはあるでしょうか。
これらのつづりに特に興味のない人は正しく書いたり覚えようとしたりする必要は全くありません。見てほしいのは最後の部分なのです。
たぶん多くの人はこのようなつづりになっていることに気が付いていないのではないでしょうか。
… はっきり覚えていない人は、ちょっと予想してみてください。
正解は…
・マクドナルド ⇒ McDonald's
・デニーズ ⇒ Denny's
・ジョナサン ⇒ Jonathan's
どうでしたか?
下に写真を載せましたが、お店を見かける機会があったら確認してみてください。
最後の「’s」(アポストロフィー エス) の部分は何でしょうか?
実は、3つとも「’s」の後に「restaurant」という語が省略されているのです。略さないで書くと次のようになります。
・マクドナルド ⇒ McDonald’s restaurant … マクドナルドのレストラン
・デニーズ ⇒ Denny’s restaurant … デニーのレストラン
・ジョナサン ⇒ Jonathan’s restaurant … ジョナサンのレストラン
※ restaurant [réstərənt]「料理店, 食堂, レストラン」
※「’s」は「~の」「~の所有する」というような意味になります。このように英語でも「明らかにわかるもの」は通常省略されるのです。
▢ 教科書の例 (NEW CROWN) ※ 中学の教科書でも出てきています。
・Some Japanese habits are different from other countries'.
日本の習慣の中には、ほかの文化のものとは異なるものがあります。
※ habit: 習慣、くせ
※ be different from: [重要熟語]「~と違っている」… 詳しくは ⇒ コチラ
※ countries’ の後ろに habits が省略されています。
※ テストを作成する人の立場に立つと「省略されている語(句)を書きなさい」… なんて出したいでしょ。
open ⇔ closed 「開店 ⇔ 閉店」
・※ 2021年08月27日 見やすくするため全体のレイアウトや表示を変えてみました。
▢ お店の表示
▢ お店の前や店のドアに「営業中」「準備中」という表示を見たことがあると思います。
・・中には、英語で「OPEN」や「CLOSED」という表示にしているお店も見かけます。
・● この英語の表示ですが、表示の前に「We’re」(= We are)という言葉が省略されています。
・・※ [主語]+[be動詞]が省略されることはよくあります。
・●「CLOSED」の代わりに「CLOSE」と表示されているのを見かけることがありますが、「CLOSE」は誤りになります。
・
▢
open [óupən]
・[形容詞]「<店・銀行などが> 開いている, 営業中の」
・[動詞]「を開ける, 開く」
・・※ [形容詞] の詳しい説明は ⇒ コチラ
・・お店の「省略していない表示」 We’re open. は「私どもは営業中です」となります。
・・※ この場合の open は[形容詞]となります。この open は名詞の前ではなく be 動詞の後ろに置かれるのが通常の使い方になります。
・・・(The store is open. と言っても、It is an open store. という言い方は通常しません)
▢
close [klóuz]
・[形容詞]「近い, 接近した」
・[動詞]「<店・工場などを>(一日の仕事を終えて) 閉める」
▢
closed [klóuz] [形容詞]「閉店の, 休業の」
・・お店の「省略していない表示」 We’re closed. は「私どもは閉店しました」となります。
・・※ これは、次の3つのとらえ方ができます。
・・・ ① [動詞] close の[過去分詞形]で We’re closed. は[受け身]で「私どもは閉められています」⇒「閉店中」
・・ ・② closed は「閉店の, 休業の」という[形容詞] ⇒「私どもは閉店しています」
・・ ・③ closed は [動詞] close の[過去分詞形]で[形容詞]のようになったもの … Fried Chicken の項目参照 ⇒ コチラ
・・・・ ※ ③ のように考えれば、closed という[形容詞]を別に覚えなくても、[動詞] close の応用として使うことができます
・・そこで、「We’re close.」という表現に関してです。
・・be動詞の後ろに[動詞]の原形が続くことはありえないため、close は[形容詞]ということになります。
・・ところが、close の[形容詞]には「閉店の」という意味はないため、この表現は「私どもは近いです」というような意味になってしまうのです。
・
英語を学ぶ環境
▢ 英語を学ぶ環境
英語を学ぶ環境は、以前に比べかなり良くなってきているのを感じます。まず、英語を学ぶための機器がいろいろ出てきています。
以前はカセットテープだったのが、CDもあればメモリープレイヤーもあります。カセットテープと違って、聞きたい部分をそれほど時間をかけないで探しだすことができます。
TVで放送している映画も以前は吹替のものがほとんどでした。今は吹替の映画でも音声を英語に切り替えることも可能です。
以前使っていたビデオテープは英語の映画を借りてきても英語でなんといっているのか聞き取るのが一苦労でした。
クローズドキャプション(closed caption)と呼ばれる聴覚障害者用の信号が入ったビデオもありましたが、2万円近い専用の機械をビデオとTVの間に入れると英語の字幕を表示させることが可能でした。
DVDやBlu Rayは、音声や字幕を切り替えて英語で聞いたり英語の字幕を見るのも可能になっています。
辞書と言えば紙だけの時代は終わり、電子辞書もあればインターネットの辞書のサイトで検索も可能です。
スマホの無料の辞書アプリでは単語の発音もしてくれます。
インターネットでは英語の質問があれば回答してくれるサイトもあります(必ずしも回答が正しくないことも理解はしておくべきです)。
翻訳サイトでは、入力すればアッという間に英語を日本語にしたり、日本語を英語にしたりするサービスもあります(入力した情報が翻訳サイトに筒抜けなので注意が必要です)。
翻訳サイトを使っている人の英語などを見ると翻訳の制度も以前と比べかなり上がってきている印象があります。
私の場合は遊びで翻訳サイトを使うこはあっても、英文を作るのに翻訳サイトを使うことはありません。
また携帯できる翻訳装置も購入できるようになりました。TVの通販番組の様子を見ると少し怪しい翻訳の場合もありますが、使えるレベルに思えます。
一対一なら強みを発揮しそうですが、会議などで使うのはまだ難しいような印象があります。
小学校でも英語の授業が始まり、中学・高校では日本人の先生だけでなくアメリカやイギリスなどからの先生から授業を受けることもできるようになっています。
英語の教材も様々あります。英文で書かていますがわかりやすい参考書がいくつかあります。
それらは学校では習ったことがない「目からうろこ」の納得できる説明で書かれていて、実際に英語を使う時にかなり参考になるものです。
本屋に行っても参考書などがあふれかえっています。
このように書き出したら、きりがないくらい英語を学ぶ環境は本当によくなっています。
ただそれらを利用するにもほとんどの場合は、ある程度のお金が必要です。経済的に厳しい場合は、どうしても「実際に存在する英語を学ぶ環境」を十分利用できないことが考えられます。
一意専心(いちいせんしん) ③
「一意専心 ②」 の続き
一つのことに集中した方がいいことはわかっていたとしても実践するのは意外と難しいのです。脳にとっては複数のことを同時に全て集中して行うことは難しいのです。逆に一つのことだけに集中することも大変なのです。例えば、頭の中で数字を数えることを考えてみます。口に出して数えてはいけません。頭の中だけで数を数えることだけに集中します。1から順番に2、3 …10まで数える。もし、数えている途中で「数えること」以外のことが頭に浮かんだら、また最初の1から数えなおさなければならないこととします。簡単だと思うかもしれないが、これが意外と難しいのです。おそらくほとんどの人が10まで数えることはできないのではないでしょうか。すぐに「数を数える」こと以外のことが頭に浮かんできてしまいます。同じようなことが英語の聞き取り試験の間にも起こったりします。自分では必死に集中して英語を聞き取ろうとしているのに、英語を聞いている間に英語の試験とは全く関係ないことが次から次へと浮かんでくるのです。
「無心」になることはそれほど大変ではありません。何かを眺めてただボーとすればいいのです。砂浜に座って波の音を聞きながらボーと海を眺めているだけでいいのです。何も考えていないような無の状態になることができます。人間としての能力的な問題とは別に意識を変えて努力しなければならないことがあります。
映画やTV番組は、もしそれらを十分楽しみたいと思うのなら他のことをしないで専念して観た方がいいのです。それを十分理解しているのに、ついつい他の作業などをしながら観てしまうことがあります。食事も集中した方がいいとわかっていたとしても、ついついTVを見ながらの食事になってしまったりしてしまいます。ジョギングは歩くのと同じで繰り返し行っていると意識しないでもできるようになるものです。健康のためとかダイエットのためにだけにジョギングを行っているのならそれでもいいように思えます。それでもヒザや他の箇所に問題を抱えている人の場合は、足の運びや着地、腕の振りなどを意識し、走ることに集中した方がいい場合もあるように思えます。ただ走るだけではどうしても単調になってしまいます。少しでも楽しく長く続けられるよう音楽を聴きながら走るのが習慣となっている人も大勢いるのではないでしょうか。
以前ジョギング中に転んで胸と頭を打ったことがあります。あばら骨にヒビがが入っていたようで、1か月ほどは笑った時やくしゃみをした時に痛みがあったことを覚えています。転倒した時は、ジョギング中にトイレに行きたくなりました。どこで道路を渡って折り返そうかと考えながらいつもより車道に近い歩道を走っていた時に工場の中から出口に向かって動きだすトラックが目に入ってきました。その車の方に顔を向け注意を払っている時に車道側の足を縁石に引っ掛けてしまったのです。ちょうど「柔道の技」をかけらたような感じで、体が倒れていくのはわかったもののどうすることもできず転んでしまいました。毎日走っている慣れたコースなのにこけてしまったのです。後から思うと、いつもと違う条件が重なり、その時たまたま注意をそらされることがあったのが原因のように考えました。
一意専心という仏教の教えのことを知り、自分なりにどういうことなのか理解して実践しようと努力してきてもうずいぶんな年数になります。これまた奥が深く、死ぬまで「よしできた」と思うことはないような気がしています。ただ、毎日を何となく生活するより、「一つのことに集中する」ということだけでも、それについて考えたり実践しようと努力することで、生活や人生がより良いものになっているような感じがしています。ジョギングで転倒してからは、階段を降りる時は、心の中で「階段を降りることだけに集中」とつぶやきながら階段を降りるようにしています。以前ならたとえ階段の途中で足を踏み外しても一番下まで飛び降りて無事でいることができたかもしれません。ただ現在は体力や身体的能力も以前ほどなく、誤って足を踏み外すと大怪我になるかもしれないためです。
「歩きスマホ」をしていても、たまたま怪我をしていない、たまたま人に怪我をさせていないことが続いているだけなのかもしれません。問題を引き起こす可能性や危険性を含んだ「歩きスマホ」のような行動を人類が続けていけば、もしかしたら同時にいくつかのことを問題なくこなせるように人間の脳が進化していくのかもしれません。ただ現時点では人間の脳はそこまでの能力はないようです。何かが起こってから後悔しないよう、「一つのことに集中すること」を少し気に留めてみませんか。
集中力について考えてみることは非常に興味深いことです。前の項で「頭のなかで1から順番に数えること」を書きましたが、数えている間にも関係のないいろいろなことが頭の中に浮かんできます。「邪念」とか「雑念」とかいうたぐいのようなものがわざと集中力を妨げようとしているような感じさえします。英語のリスニング試験の時にも集中しようとしている心とはうらはらに全く関係ないことが次から次へと浮かんでくることがあります。考えないようにしようとしてもあまり効果がありません。集中しようとすればするほど、逆に関係のない余計なものが浮かんできたりしてしまいます。
そういった集中を妨げるものは「悪いモノ」のようにとらえがちですが、本当のところはどうなんでしょうか。脳に備わっている機能なので、あながち悪い面だけではないようにも思えます。これは脳科学などの知識は一切ないので勝手な推測になってしまいます。もし、そういった余計な考えが一切浮かばず一つのことにすぐ集中でき、その集中を長く継続できたらどうでしょうか。一見素晴らしいことのように思えます。ただ、同じことを長時間続けることは脳の同じ部分を長時間にわたって酷使することにはならないでしょうか。そしてその酷使によって脳がダメージを受けたり危険な状態に陥ってしまう可能性はないのでしょうか。夢中になって何かをしていると、多少外部から刺激があっても気づかなかったりすることがあります。例えば、ヘッドフォンなどで耳をふさいでいるわけでもないのに集中していると誰かに声をかけられたりしても気づかなかった…という経験はないでしょうか。そういった集中している状態から抜け出すキッカケはどういうものなのでしょうか。「歩きスマホ」をしている時に、あまりにもスマホに集中していると周りの気配や危険に全く気が付かなくなるのではないでしょうか。脳が適度に気を散らしてくれることにより、そういった「一つのことに極度に集中すること」を防いでくれているように思えます。
一般に子供は一つのことに集中できる時間が大人と比べて短いと言われています。子供に何かを教える時はこれを考えて、1回の授業で一つのことを長くさせるのではなく、子供たちが興味を持てるゲームなどをいくつかさせる必要があります。次から次へと新しいことをして飽きさせない工夫が必要なのです。これに対して大人はじっと机に座って比較的長く同じことをし続けることが可能です。年齢を重ねたり訓練することによって集中できる時間は長くすることができるかもしれませんが、子供が一つのことにをあまり長く集中できないのは脳の防御機能なのかもしれません。
大人もそうですが、特に子供は夢中になると他のことが目に入ってこない傾向にあります。車を運転している時に、路地からボールを追いかけて子供が急に飛び出してきてヒヤっとした経験はないでしょうか。夢中になると他のことが全く見えなくなる…子供のいいところでもあり大人が注意してあげなければならないところでもあるように思います。
やる内容によって必要な集中力の度合いが異なってきます。友達と普通に会話する時はそれほど集中力は必要ありません。一方、英語を勉強している人が少しレベルの高い授業を受けるためにはかなりの集中力が必要になったりします。先生や同じクラスの人がなんと言っているのか聞き取るために全神経を使わなければならないこともあります。初めてTOEIC(トーイック)の試験を受けた時は開始から終了までの2時間ずっと集中しなければならないため、終わった時はクタクタになっていた…という経験をした人も多いのではないでしょうか。
「目の前の一つのことに集中する」ことは大切なことだとわかっている人も大勢いると思います。ただそれを実践するのは難しいことです。集中しようという自分がいます。また同時に集中させないようにしている別な自分もいるからです。起きてから寝るま集中し続けることはほぼ無理なことです。怪我をしたり命を守るような「ここぞ」という場合は、特に「目の前の一つのことに集中すること」が大切なのではないでしょうか。「一意専心」というような言葉(教え)を知っていて実践しようとするかどうかで人生が大きく変わってくる場合もあるように思えてなりません。
「一意専心 」終わり
一意専心(いちいせんしん) ②
※ この記事は英語とは関係ありません。正しいという前提では読まないようお願いいたします。
■「一意専心 ①」 からの続き
勉強や作業、ジョギングなどを音楽を聴きながらすることはないでしょうか。
音楽を聴きながらだと、作業がはかどったり少し苦痛なジョギングも楽しいもののような気になったりするものです。
音楽を聴きながら何かをしていても、本当に何かに集中すると音楽が聞こえていないことを経験したりするものです。
どうやら脳は集中していると、それ以外のことは遮断しようとする傾向にあるようです。
これが同時にいろいろなことをしようとした時に、時に危険な目に遭う原因にもなりうるのです。
仏教の中に「目の前の一つのことに集中しなさい」という一意専心の教えがあるのは、どうも人間の脳の働きと関係がありそうです。
人間の脳は複数のことを同時にすることがあまり得意ではないようなのです。
同時にいくつかのことをしようとすると、全てのことの能率が落ちたり、一部の感覚や能力を落としてしまうようなのです。
脳科学を勉強しているわけではないので詳しい働きは知りませんが、ある程度のことは経験から推測することができます。
歩くとか走るといった運動は、繰り返すことによって、特に意識したり考えなくてもできるようになります。
運動することと、勉強したり何かをじっくり考えたりすることと運動は脳の別なところを使っているようです。
歩きながら何かを考えていても歩きがぎこちなくなるということはありません。
いわゆる「歩きスマホ」は、同時に歩く動作とスマホを見たり操作する動作を行っています。
スマホを操作しても歩く動作は普通にできています。問題はスマホを操作することによって周囲に注意を払う感覚や意識が下がってしまうことです。
このため「歩きスマホ」をしていてうっかり他の人にぶつかってしまったり、駅のホームから転落しそうになったりしてしまいます。
二宮金次郎も実際に焚き木をしょって本を読んでいたのであれば今でいう「歩きスマホ」をしているのと同じようなことだったのでしょう。
従来の二宮金次郎の像は「歩きスマホ」を推奨しているように見えるため撤去されたり座って本を読む像に取り換えるなことも起こっているようなのです。
ただ、二宮金次郎が生きていた時代のことを考えると、焚き木をしょって本を読むことがそれほど危険なことではなかったのかもしれません。
山道を歩いていたのなら、足を踏み外して谷に落ちる危険はあったかもしれません。普通の道なら、歩行者がそれほど沢山いたようにも思えません。
仮に歩いている人とすれちがっても相手がよけてくれたのではないでしょうか。まして自動車とぶつかるようなことはありえなかったことが想像されます。
世の中の全てのものの動きが現在ほど速くなかったことを考えると、二宮金次郎が生きていた時代に、
仮に彼が「歩きスマホ」をしていたからと言って大きな問題にはならなかったのではないでしょうか。
何かに気づきゆっくり反応しても十分に間に合うような時代だったのかもしれません。
それに対して現在は、車や電車が近づいて来ているのに気づかず反応がほんの少し遅れただけでも大きな怪我をしてしまったり、車の運転中や自転車に乗っているときに、
少しスマホに目をやっただけで数メートル~数十メートル進んでしまっています。気づく前に既に何かにぶつかっていた…と言うことも十分考えられます。
常に神経を集中していないと自分が怪我をしたり他の人に怪我をさせてしまったりするような時代だからこそ、この教えはより重要になってくるのではないでしょうか。
「一意専心 ①」で自分が風邪を引いた時のことを書きました。風邪で休むと他の人に迷惑がかかるから休めない…と思い休めない人もいると思います。
誰かが長い間休まないことを前提に職場の仕事が割り振られているため、
仮に「風邪などで休んだ時に他の人が変わってやってくれない」というのも休めない理由になっていないでしょうか。
体調が悪くて休むと休んでいる間に遅れた仕事は結局自分でがんばって取り戻すしかない…このような職場や会社が多いように思えます。
自分の体調だけでなく子供が風邪をひいたときに仕事を休んでも同じようなことが起きます。子供はちょっとしたことで体調を崩しやすいものです。
「忙しい時なのに、なんで子供の風邪ぐらいで休むんだよ」とか思っている人はいないでしょうか。
同僚どころか会社で立場的にある程度上の人まで同じような考えの場合は厳しいものがあります。
「子供は社会全体で育てる」とか「社会全体で利益になるのであれば目の前の小さい利益にはこだわらない」という大きな目を持った会社であれば、
子供が風邪をひいてもそれほど気にしないで休めるのでしょうが、そういった大きい目を持った会社ばかりでもありません。
風邪は栄養のあるものを食べてゆっくり寝ていれば治るものなのですが、会社を長く休めないので子供が風邪を引いたときは、早く治すように病院に連れて行きます。
お医者さんに、風邪には全く効果のない「抗生物質」を処方するようにお願いしたりするのです。医者も効果がないことを知っていても、
しつこく言われ、それで納得してもらえるのなら…と意味のない抗生物質を安易に出してしまいます。
こうして抗生物質を乱用することにより、抗生物質の効かない新たな耐性菌を生み出すという社会的な問題になるのです。
一意専心の教えのとおり社会全体が「体調が悪いときはゆっくり寝ていましょう」であればこういう問題は少なくなっていくのです。
風邪で休む人が悪いのではなく、風邪ぐらいでは休ませてくれない社会が悪い …「一意専心」という教えと新型コロナが私たちに伝えようとしている一つはそこではないでしょうか。
「一意専心 ③」 に続く
一意専心(いちいせんしん) ①
この記事は、気分転換にでも読んでいただけたらと思います。漢字四文字の言葉です。「あっそ」で終わりかもしれません。自分にとって人生を変えるような「教え」になるかもしれません。考え始めると奥が深く、何年考えても結論的なものは出ないかもしれません。興味があったら深く考えて自分なりに実践してみるのも悪くないと思います。
▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢
インターネットで調べてもらえばわかりますが、一意専心とは「他に心を動かされず、ひたすら一つのことに心を集中する」という意味です。一見、簡単なことのように思われる方もいるかもしれませんが、いざ実際実践しようとすると、これが意外に難しいものなのです。
一意専心は、もともと仏教の教えのようで「目の前の一つのことに集中しなさい」ということらしいのです。例えば、「食事をする時は食事をすることに専念」し、「病気の時は病気の治療に専念」するということです。TV番組で、永平寺などでお坊さんが修行をしている中で、食事の時は会話をすることは許されず、みんな無言でもくもくと食事をしているのを見たことがないでしょうか。実践するとこのようになるのでしょう。この光景を見ると「これは修行している人に限ったことで一般の人には関係ないんでしょ」と思う人もいるかもしれません。
私も最初にこの話を聞いた時は、食事は話しながら楽しく食べた方が消化にも良いと聞いたこともあり、本当なのか疑問に思ったのを覚えています。それではまず食事について考えてみましょう。現在のようにみんで会話をしながら食事をするようになったのはそれほど昔のことではないように思われます。明治維新になり西洋文化が入ってきて、TVなどでアメリカの文化や習慣に触れるようになってから、日本の食卓でも同じように楽しくおしゃべりしながら食事をするようになってきたように思われます。それまではどうだったかと言うと、どこの家庭でも「食事は黙って食べるもの」「食事中は黙っているもの」だったのではないでしょうか。
確かに黙って食事に集中した方が、料理の中のそれぞれの素材のうまみや味付けをより感じることができ、食事そのものを楽しむことができるような気がします。食べたことのないような高級フレンチやあまり口にできないマツタケ料理、高級なうな重などは、ワイワイにぎやかに会話して食べるというより、誰かがそう言うわけでもないのに、みんな自然と黙って食事に神経を集中して味わうように食べるのではないでしょうか。目をつむって食べる人さえいます。中山秀征さんは番組の中で、おいしいものを食べる時は目をつむって味わうように食べているのをよく見かけます。目をつむって目から入ってくる情報を遮断した方がより味覚に集中できるのでしょう。「食事をする時に会話をした方がいいかどうか」をいろいろな人に聞いてみたことがあります。「おいしくないモノは会話した方が味がわからなくていいのでは」という意見もありました。フランス語を勉強している人によればフランスでは、食事中に実際食べているものの話をするそうです。食材や調味料に何が使われているとか、どうしたらもっとおいしくなるか…などを話しながら食事をするらしいのです。仕事が忙しく何か作業をしながら食べ物を口に入れていく…生活するためのエネルギーを体内に入れているだけで食事を楽しんでいたり味わっているようには思えません。昼食をとりながらのミーティング…会社の上の人の考えかもしれませんが、おいしい食事が会社から提供されたとしても食事を楽しんで味わって食べられるのでしょうか。
食事に限らず、他のことでも一つに専念・集中するかどうかで充実度が変わってくることが多いように思えます。お笑い番組でさえ、他のことはしないで集中してみた方がより楽しむことができます。家で映画を観る時は、何か他の作業などをしながらだと映画があまり楽しめなかったりします。映画自体を楽しみたいのであれば、他のことは何もしないで映画を観ることだけに専念・集中した方いいようです。その意味では映画館に行った方が映画を観ることに専念でき映画を楽しめるように思えます。好きな歌手やアーティストのライブコンサートも実際に現地で観た方が集中している分より楽しめるかもしれません。
それでは、病気の時は病気を治すことに専念できるのでしょうか。重い病気や怪我などをしたときは仕事や他のことをしている場合ではありません。病気や怪我を直すことに専念せざるをえません。普通の風邪を引いたときはどうでしょう。仕事がいっぱいたまっていて、休むことによって他の人に迷惑をかけたり、治って出社した時に自分が余計大変なことになることを考えると多少つらくても仕事をしてしまわないでしょうか。一意専心の教えによると、このように「風邪を引いた時でも治療に専念すべき」なのだそうです。疑問に思う人も多いと思います。私も「理想をとなえる教え」と「現実」は違うものだと思っていました。
新型コロナウィルスにより、いろいろなものやものの考え方が変わってきています。それまで常識だと思っていたことがそうではなく、当たりまえのようにできたことができなくなってきています。「風邪をひいてもたいしたことがなければ出社して仕事すべき」というのは、「少しでも風邪のような症状があれば出社しないで自宅で療養しなさい」となってきています。「多少の風邪で休むのは悪いこと」ではなく、「多少の風邪なら仕事をすべきという社会全体の考え方がおかしかった」のではないでしょうか。
「みんなと楽しく会話をしながら食事する」は、「食事中は会話しないでください」になってきています。学校の給食の様子を紹介するニュース番組では、昔の日本のようにみんな黙って黙々と食事をする映像が写しだされていました。それを見たアナウンサーが「会話しないでもくもく食事するのはさみしいですね」と言うと、別なアナウンサーは「食事を味わってたべられるのもいいのでは」と言っていました。
欧米のいろいろな習慣や考え方などが明治維新以降どんどん入ってきました。「なんでも日本より欧米の方がすぐれている」という考えが多少なりとも根底にあったように思えます。「本当に欧米の考え方の方が優れているのだろうか」「当たりまえと思っていることが本当に当たりまえなのだろうか」と改めて考える時がきているのかもしれません。
新型コロナでいろいろな大変なことが起きています。ただ、新型コロナによって、今まで疑問にさえ思わなかったことが本当に当たりまえなのかどうか考える機会を与えられているかのようにも思えます。せっかく考える機会を与えてもらったのに、新型コロナの危機が去ったとたんに、ほとんどの人は、まるで何事もなかったかのようにまた前の生活に戻ってしまうのでしょうか。
「一意専心 ②」 に続く