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話題 (その他・英語に関係ないもの)

二つの仕事
※ この記事が正しい前提で読まないようお願いします。何かの考えるキッカケになれば幸いです。

中学・高校生の中には、将来の自分の仕事について考えたことがある人もいるのではないでしょうか。
人それぞれ好きなものや興味を持っているものがあると思います。
サッカーが好きな人もいれば、バスケや釣りをすること、ゲームをすることや、漫画を読んだりアニメを見たりすることが好きな人もいます。
また、歌を歌ったりダンスをするのが好きな人もいれば、ピアノを弾くことが好きな人もいるでしょう。
仕事に関して言えば、例えば、野球が好きで努力したからと言って、全ての人がプロ野球の選手になったり実業団の野球チームに入れるわけではありません。
お笑いが好きで、同じくお笑い好きのクラスメートとコンビを組んだとしてもお笑いだけで生活していくことができる人ばかりではありません。
自分が好きなものを続けていくためには、生きていくために家賃や食費、光熱費を支払うお金を稼ぐ必要があります。
家がよほどの大金持ちで生活費や住むところの心配を全くしないでいい場合などを除いて、多くの人は生活するためにお金を稼ぐ必要があると思われます。
アルバイトを掛け持ちしながら、お笑いの学校に通ったり、ネタを考えて公園で練習する苦労話をテレビで見聞きすることもあります。

これは、職場の回覧で回ってきた仕事関係の雑誌にたまたま載っていた記事(エッセイ)のことに関連して書いています。
そのエッセイを読んだのは、ちょうどしていた仕事について考えていた時期だったこともあり、その記事を興味を持って読んだことを覚えています。
そのエッセイは、自分の好きなこと(仕事)と、生きるために必要な生活費を稼ぐための仕事の二つの仕事が必要ではないだろうか…というような内容でした。
確かに自分の好きなことを仕事として生活できている人はそれほど多くないように思われます。
仕事をしている人に片っ端から、「今している仕事は子供のころからしたかった仕事かどうか」、また「好きで選んだ仕事かどうか」質問してみるのも面白いかもしれません。
看護師や消防士、花屋さんやパン屋さんなどは好きでなった人が多いイメージのある職業もありますが、
いわゆる「サラリーマン」は好きでなったというより、生活のため選択した仕事である人が多いような気がしています。
自分がしたくてなった職業、「好きなこと=仕事」 となると決して楽しいことばかりではなく、好きなことを仕事にしたことの大変さもあるのだと思います。
そうでない場合は、エッセイで書かれていたように、人には生活をしていくための仕事と、(お金は稼いでいなくても)好きなことを追求するような仕事の二つが必要なのかもしれません。

生活するためにしている仕事に関しては、「好きになることの大切さ」の記事で少し触れることにします。

関連記事
好きなことの持つ力
好きになることの大切さ (生活費を稼ぐための仕事は割り切ってするの?)
何をしたいのか、何ができるのか
人の持つ可能性
探していないと見つからないもの

 

話題 (その他・英語に関係ないもの)

他人に決められる人生
この記事が正しい前提で読まないようお願いします何かの考えるキッカケになれば幸いです。
自分の人生なので、人生のほとんどのことは自分で決めているように思っている人が多いのではないでしょうか。
世の中のいろいろなことを考えたり観察してみると、自分の人生なのに他人に決められたり左右されたりすることが意外と多いことに気づかされます。
家族が何かの事件に巻き込まれたりすると、事件の解決をお願いしたり訴えるためにテレビに出演したり、人前で話しをしたりしなければならなくなる場合があります。
自分の得手不得手や、好き嫌いとは関係なく急に人前で話をしなければならない立場に置かれたりします。
「私は人前で話すのが苦手だから」だとか「人前で話すのが嫌い」などと言っている場合ではありません。
他人が起こした事件のせいで、やらざるを得ないような立場に追い込まれてしまうのです。
そういった事件に巻き込まれさえしなければ、おそらく普通のおじさんやおばさんだっただろうと思われるような人が
いきなりテレビに出演したり、総理大臣や大統領に会ってお願いしたければならなくなったりします。
そのような大変な事件などに巻き込まれなくても、普通の生活をしているだけでも他の人から影響をうけたりすることは少なからずあります
仕事でいくらがんばって成果を出していたとしても、上司が正しい評価をしてくれなければ給料やボーナスが期待するほどもらえなかったりする場合もあります。
上司と折り合いが悪いというだけで、退職者リストに入れられる場合も考えられます。
フィギュアスケートなどでは、Aと言う選手とBという選手を比べたときに、誰が見ても A選手の方がいい演技をしているのに、
現実は、金メダルが B選手で、銀メダルが A選手だったりする場合があります。
柔道では、見た感じでも、ビデオのスロー再生で確認しても絶対にCが勝っていたのに、いわゆる「世紀の大誤審」と呼ばれるような判定で、
金メダルを逃してしまったりすることもあります。
メダルが取れるかどうかや、メダルの色も審判などの他人によって左右される場合があるのです。
何秒で走ったか…という時間で決まる勝負はわかりやすく人の判断や判定が入る余地がないように思えます。
一見公平そうに思えるそのような速さを競う競技でも、他人によって自分の人生が左右させられるようなことが起きます。
潜水するバサロ泳法が得意で金メダル候補だったのに、急なルール改正で潜水距離に制限が設けられ引退を余儀なくされた選手もいました。
自分は何も変わらず同じように努力していても、それまで白だと言われていたものが、急にこれからは黒になりますといわれても対応できる人ばかりではないのでです。

関連記事
好きなことの持つ力
好きになることの大切さ (他人に決められた時に、どう行動するのか)
何をしたいのか、何ができるのか
人の持つ可能性 (人は、好きなもの・興味を持つものを選択する傾向が高い)

 

話題 (その他・英語に関係ないもの)

人の持つ可能性:
※ この記事が正しい前提で読まないようお願いします何かの考えるキッカケになれば幸いです

生まれたばかりの人が持つ可能性は無限大なのではないでしょうか。
生まれたばかりの子が将来、「宇宙飛行士やノーベル賞を受賞するような人物、あるいはプロ野球や、J リーグ選手、
総理大臣や日本を代表するような会社の社長にならない」とは誰も言い切ることはできないのではないでしょうか。
それが成長するにしたがって可能性が少しずつ狭まっていくようです。なぜなのでしょうか。

何かを選択することは、可能性を狭めていく性質も併せ持っています。世の中の全てのことに挑戦できればいいのでしょうかが、それは不可能なことです。
たまたま野球に興味を持ち野球を始めれば、J リーガー選手になる可能性は低くなります。
日本では少年野球のチームに入れば、オフはなく一年中野球の練習をすることになるようです。
アメリカではスポーツをする子供は、夏は野球、冬はバスケ…のように夏と冬でそれぞれ違うスポーツをするそうです。
あるプロの選手が全く別な種目のプロに転向したり挑戦したりする話を聞くのも、アメリカでのこういう環境や事情が関係しているように思えます。
日本では、スピードスケートのオリンピック選手が、同じ筋肉を使う自転の競技に夏のオリンピックで出場したりする話を聞いたりすることがあっても、
バスケットボールの選手がプロ野球選手に転向したり、その逆の話を聞くことはまずありえないことのように思われます。
一つの道で一流になるには、ある程度一つのことに集中することが必要で、いくつものことをしようとするとそれぞれが中途半端になってしまうという考えが大元にあるのだと思います。
一つのことを選択するということは、他の可能性を捨てたり犠牲にすることとも言えるのではないでしょうか。
人生は選択の連続です。可能性が無限だった生まれたばかりの子が選択を繰り返していくことで可能性が減っていくのは自然な流れと思われます。
その点、中学・高校での学ぶことは、可能性をなるべく広く残したままにしておくためのモノと考えることもできます。
高校や大学で勉強する数学ほど高度でない中学の数学でさえ、学校を卒業したら全く使わなくなってしまう人も多いのではないでしょうか。
「将来使わないだろう」というだけで、最初から切り捨てしまっていると、いざ何かのきっかけで使う必要が出た時にかなりの時間と努力が必要になってくる場合があります。
普通は学校で習うことのない中国語やロシア語などを、何も知識もない状態から勉強しようと思った時に、何から勉強していいのかさえ分からない場合があります。
それに対して英語は学校である程度習っている為、学校であまり一生懸命勉強しなかったとしても、他の言語に比べれば取り掛かりやすいのではないでしょうか。
選択や挑戦しないことにより可能性を失ってしまっているケースがあります。もしダンスをしていたら一流になれる可能性がある人がいたとしても、
ダンスに興味を持つ機会が全くなければ、ダンスを始じめることは考えずらく一流のダンサーという可能性はなくなります。
何かに興味を持つには、必ずしも大きなキッカケや理由が必要なわけではありません。
「お兄ちゃんやお姉ちゃんがやっていたから」とか「先生が自分の名前を覚えてくれたから」などが何かを始めるキッカケだったということもよく聞く話です。
何かに興味が持てなかったり、嫌いになってしまう理由も、他人から見ればささいなことである場合もあります。
教師が何気なく放った一言で、その教師が教えている教科まで嫌いになったりすることもあるように思えます。
悪気がなく冗談やからかうつもりで言った言葉で傷ついたり、傷つくまでいかなくても後々まで引きずって嫌になってしまう場合もあるのではないでしょうか。
逆に、あまり好きでなかった教科も、教えてくれる教師によって興味を持ち好きになる場合もあるような気がしています。

選択することによって可能性が減ってくることを書きましたが、年齢によっても可能性が減る場合があります。
世の中には年齢制限と言うものがあり、年齢と共に可能性も減ったり無くなったりするものがありま
例えば、将棋が好きでプロ棋士になりたいと思っていても、26歳までに四段に昇段できないとプロにはなれないようなのです。
そのような決まった規定がない場合でも、年をとるに従って挑戦するのが難しくなってくることもあります。
人間は、ある年齢を過ぎたあたりから体力や身体的能力が下がってくるものです。ピークの年齢を超えてから何かしらの
プロの選手になろうと思い努力したとしても、現実的になれる可能性はかなり低いのではないでしょうか。

可能性を狭めている他の要因の一つに、実際にやってみた時の体験もあるように思えます。
「初めてスキーに行った時に、たまたま天気が悪かった」… など印象が悪かったり、楽しくなかったりすると続けようという気持ちもわかないものです。
実力は努力によってある程度伸ばすことができます。ただ、ある分野では努力だけではどうしょうもないことがあるものです。
例えば長距離走は、いくら努力しても「最初から得意な人にはかなわない」というものがあるようです。
日本人がいくら努力しても、長距離走ではアフリカ出身の選手にはなかなか勝つことができないのには、この「生まれ持ったもの」のようなものがあるようです。
いろいろ試すうちに、「これは好きになれない」とか「これは苦手」というのが自分でも次第にわかってくるため、
それ以上続けたり努力するのをあきらめたりやめてしまうのではないでしょうか。

このように書いてくると、人間は生きていくうちにどんどん可能性がなくなっていき、そのうちゼロになっていまうのではないかと思ってしまう人がいるかもしれません。
今まで書いてきた可能性は「ごく一部の人にしかなれないようなこと」で、世の中には特に才能や能力がないとできないようなことばかりではないのです。
望めば何でもできる、何にでもなれる…という可能性は確かにだんだん少なくなってくるかもしれませんが、
普通に努力したり頑張っていれば、なれるものやできることも数多くあります。そのような可能性は、努力や頑張りによって逆に増やすこともできるのです。
好きなことを職業にしようとすると難しい場合があります。ただ趣味という形なら続けることができることはできるのです。
世界一や日本一などを狙わなければ続けられることも多いと思います。

[2022年01月21日追記]
2021年、メジャーリーガーの大谷翔平選手 (ロサンゼルス・エンゼルス)がピッチャーとバッターの二刀流として素晴らしい成績を残しました。
最初に彼が、ピッチャーとバッターの両方に挑戦することを言った時に、日本のプロ野球で実績を残した野球評論家のほとんどが、どちらかに絞った方がいいという意見でした。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」…諺にもあるように、両方挑戦すると、どちらも中途半端になり良い成績が残せない、それどころか
プロ野球選手として生き残ることさえ難しくなる可能性があるというのが理由だったように記憶しています。
実際、高校などで素晴らしい成績を残した実力があると思える選手でも、プロ野球でそれほど活躍できないで去っていってしまう人も多いのです。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」… というのは多くの場合は当てはまるように思えます。
逆に言うと、大谷選手のように才能があり、強い「こころざし」を持ち、(ただ「がむしゃら」ではなく
)考えて努力をする人には当てはまらないのでしょう。
(※ 大谷選手の才能に関して: 大谷選手は、160キロを超える速球と、わかっていても打てないと言われているスプリットを投げることができます。160キロの速球は努力だけでは投げられない速度なのです)
大谷選手が二刀流に挑戦するという選択をすることで、大谷選手個人の可能性と野球界の可能性を膨らませてくれました。
もし大谷選手が、多くの評論家の忠告的な意見を受け入れて、ピッチャーかバッターのどちらだけを選択(妥協とも言えるるかもしれません)していたら
可能性を一つ減らしていたところでした。最初の部分にも書いていますが、選択をすることは可能性を減らすことにもつながることなのです。
大谷選手のように一見無理のような二つのことに挑戦し、両方で活躍し成績を残すことは、残念ながら全ての人にできることではなく、
才能と強い意志を持ち、考えて努力できる人にだけできることのように思えます。
ただし、日本や世界のトップを目指すのでなければ、意志をもって努力すれば可能性を増やすことは誰にでもできることだということは付け加えておきたいです。

関連記事
他人に決められる人生 (苦手なこと、嫌いなこともしなければならない場合があります)
好きなことの持つ力
何をしたいのか、何ができるのか

 

発音

[ご参考]
ローマ字に引っ張られる英単語の発音
 気分転換」的に気軽に読んでもらえたらと思っています
 
  日本語では、初めて見る漢字でも、その漢字の「へん」と「つくり」から、「だいたいこのような発音」…という想像がつきます。
 英語では、初めてみる単語でも、知っている単語の発音の傾向から「こんな感じの発音」と判断して発音します。
 英単語やローマ字表記の単語を見た時に、日本人は日本語(ローマ字)の傾向に従って発音し、英米人は英語の傾向に従って発音します
 
  この発音に関してこのような二つの経験をしました。
 1⃣ 以前働いていた会社の英国の現地法人に Nigel という名前の人がいました。日本人はローマ字式に「ニジェール」と発音しました。
  そのたびに、英国人から「ナイジェル」と名前の読み方をなおされました。
  Nigel は、日本語的には(ローマ字読みでは)「ニジェ(ー)ル」ですが、英語的には「ナイジェル」なのです。
   ※ Nigel [náidʒəl] の「i」[ái] の発音 ⇒ コチラ

 2⃣ イギリスにいた時に、お店で商品の予約をして申し込み用紙に自分の苗字「Omiya」を記入しました。
  受け取りに行くと、私の名前を「オマイヤ [Omaiya]」と呼ばれました。
  Omiya は日本語的には「オ(ー)ミヤ」ですが、英語的には「オマイヤ」なのです。
  この日本語式の読み方(ローマ字読み)と英語の読み方の違いが、
  英語の勉強を始めて英語の単語を見た時に、日本語的発音と英語の発音との違い戸惑い
  時にそれが英語を学ぶ時の障害の一つになっているような感じがしています。

 

話題 (その他・英語に関係ないもの)

[ご参考]
サイン歌詞
※ 外国の映画俳優などに「サインくださ~い」と、誤った単語を使っていそうです。
▢ サイン (有名人などに書いてもらうもの)
・・※ サインは日本語英語になります。
autograph [ɔːtəɡræf]「署名, サイン (特に記念として残されるようなサイン)」
※ 間違えて sign とか signature を使う人も多いようです
sign [sáin]「符号, 記号」「星座 (sign of the zodiac)」
※ 手話は、sign language
signature [síɡnətʃər]「署名,サイン」
※ 芸能人などのサインは autograph

▢ 歌詞
lyric [lírik]「歌詞」
通常 lyrics と複数形にします。
勘違いして poem を使う人もいます
poem [póuəm]「(1編の)詩」

 

話題 (その他・英語に関係ないもの)

日本航空のアナウンス
2020年10月01日、日本航空の英語のアナウンスで従来の「Ladies and gentlemen! 」を使わないことになったそうです。
その代わりに「All passengers!」「Everyone!」などが使われるようです、男性、女性をイメージする言葉を気にする人に配慮しての変更とのことです。
このニュースは英国BBCのニュースでも取り上げられていましたが、同じBBCのラジオ番組の中では「Ladies and gentlemen, boys and girls! 」という表現が使われていました。
英語を母国語として使っている国々の人たちにはこの「Ladies and gentlemen! 」という言葉はどのように響いているのだろうかとふと疑問に思ってしまいました。
もしかしたら、日本人ほどこの表現に男性や女性を意識はしないで、「ただ単なる挨拶」のようなとらえ方なのかもしれません。
結婚すると相手は「配偶者」となります。「配偶者」というのは硬い法律用語のような言葉なので、日常生活ではあまり使うことはありません。
それではなんと言う言葉が使われているのでしょうか。「主人」「旦那」「夫」「ハズバンド」、「奥さん」「嫁」「ワイフ」…いろいろな言い方がありますが、
テレビのインタビューなども含め会話を注意して聞いていると「主人」という言葉を使う人も少なくありません。
考えてみると「主人」という言葉の意味には「夫」を指す他に「一家のあるじ」「自分の仕えている人」という意味もあります。
「主人」と言うと夫婦が対等な立場というより男性の方が上であるような感覚を与えてしまうことはないでしょうか。
ただ、そういった意味などはあまり考えず、ただ結婚している相手という意味で「主人」という言葉を使っている人も多いのではないでしょうか。

何気なく使っている言葉
日本語の中には普通に使っている言葉の中で知らず知らず人の心を傷つけているかもしれないものがあることは覚えておきたいものです。
表現の中には人間の体の部位をつかったものがあります。交通手段の意味で「足」を、手段・方法の意味で「手」がつかわれたりします。
例えば、交通手段がないという意味で「足がない」といったり、手段がないという意味で「手がない」という言い方をします。
世の中には、事故や病気で手や足をなくされた方もいます。「まだ帰らないの?」「はい、足がないんですよ」と全く無意識で言ったことがあります。
質問した人が事故で足をなくされた人だったので、言った後にハッとしたことを覚えています。いつも何も考えないで使っている言葉が人を傷つけてしまう場合もあるように思えます。
「Ladies and gentlemen! 」を考えることも大切かもしれませんが、この「手がない」「足がない」という言い方なども考えなおすべきのような気がします。
「手がない」「足がない」という言い方とどれぐらい似ているかはわかりませんが、英語を母国語としている人にとって「Ladies and gentlemen! 」は、
それほど男性・女性を意識させる表現なのでしょうか。実は、ただの挨拶程度にしかとらえていないのかもしれません。
自分は男だと思っている人に対して女性のような扱いをしたり女性のように呼んだりするのはよくないことだと思います(逆も同じことが言えます)。
ただ「Ladies and gentlemen! 」というのは、特定の個人に対して言っているわけではなく、アナウンスしている全員に言っているというのも、
ネイティブにとってはそれほど差別だとか意識するような言い方ではないのかもしれません。
ただこれはネイティブではないので想像するだけで、感覚がよくわからないというのが正直なところです。
police officerという言葉がなく、以前のようにpoloceman という言葉が使われていた場合、女性が I am a policeman. とか、She is a policeman. というのは
確かに違和感を感じますが、「Ladies and gentlemen! 」というのは、これとは少し違うような感じがしています。
日本航空が挨拶を変え、それらが海外にも伝えられたことによって、この「Ladies and gentlemen! 」という表現が英語を母国語とした国々でも残るのか
あるいは別な表現に変わるのか注目して行きたいものです。

語順
「Ladies and gentlemen! 」の言い方には別な要素があります。単語が2つある場合に、2つを同時に発音することは物理的にできないので
どちらかを最初にもう一方を後に言うことになります。言葉によってはどちらを最初に言うかでどちらが「主」か印象付けてしまうことがあります。
日本とアメリカのことをいう時に、日本では必ず「日米」と言います。「米日」ということはありません。
これは日本を「主」と考えているからと思われます。これは相手の国では自分の国を最初に言うだけなのであまり問題にならないのかもしれません。
ただし、以前日本と韓国で共同開催されたサッカーワールドカップでは公式的な呼び名を Japan Korea World Cupにするのか、
Korea Japan World Cup にするのか両国で議論になったことがあるようです。

語順に関しては、日本語でも英語でも慣用的な決まった順番の言い方があります。普通は a knife and fork「ナイフとフォーク」と言います。
a fork and knife 「フォークとナイフ」と言ってはダメなのか…と言われると問題はないように思えますが、やはり聞きなれない言い方だと違和感があります。
ただ、knide を先に言うからと言ってknifeが「主」なのかというとそういうことではありません。男性と女性はどうでしょうか。
どちらが「主」で誰が「従」だと言うことはないですが、「男女」のように男性を先に言うのが聞きなれた言い方になります。
英語でも boys and girls と言っても girls and boys と言うことはまずないと思います。英語でも男性を先に言うのが一般的であるのに
「Ladies and gentlemen! 」は女性を先に言っています。「Ladies に敬意をもって先に言っている」という話を聞いたことがありますが、
真偽のほどは専門家の方に確認するなどしないとわかりません。ただし、「Ladies and gentlemen! 」という言い方が日本に入ってきた時に、当時の日本に該当する言葉はなく、
英語をただ日本語に訳したハズだと思うのですが、「淑女、紳士のみなさん」ではなく「紳士、淑女のみなさん」と言う訳にしたのは時代的な背景もあるのでしょうか。
言葉の順番に関しては、どちらを先に言うかで意味が異なってくる場合があります。
wine bottle は「ワインの瓶」のことですが、bottle wine は グラスなどに入ったものではなく、「瓶に入ったワイン」のことを言っています。
前の単語が後ろの単語を説明する役割をしています。
これまで説明したように、単語の順番は、どちらが「主」かという場合、慣用的な場合、前の単語は説明として使用している場合…などがあります。

話題 (その他・英語に関係ないもの)

言葉は生き物
ら抜き言葉」ということを聞いたことはあるでしょうか。
「食べれる」「見れる」と言った言葉が「ら抜き言葉」と呼ばれています。
文法的には「食べられる」「見られる」というのが正しいらしいのですが、この「ら抜き言葉」を使っている人が多数派になってようなのです。
文法的に正しいかどうかは別にして、世の中で多くの人に使われている言葉が市民権を得て生き残っていくように思えます。
流行のようなものもあり「あれだけ使われていたのに…」という言葉が、何年か経つと誰にも使われていないようなことが起こります。
「同じもの」なのに呼び方が変わっていくものもあります。チョッキ ⇒ ベスト ⇒ ジレ などと年代によって呼び方が代わり、
ファッションにに疎い人にとっては「ついていけない」と感じることも多いのではないでしょうか。
時代背景による変化もあります。以前は圧倒的に女性が多い仕事には「看護婦」とか「保母」などの呼び方が使われていましたが、
男性でもこれらの仕事をする人が多くなるに従って「看護士」「保育士」などと呼ばれるようになってきました。
英語でも同じことが言えます。文法的に正しくない言い方でも、多くの人によって長い期間使われることによって「市民権」のようなものを得て使用が認められることもあります。
逆に以前に使われていた表現が使われなくなることもあります。以前は男性をイメージさせる言葉が含まれていた fireman / policeman / chairman などは
fire fighter / police officer /chairperson などの言い方に置き換わってきています。
また、英語を母国語としない沢山の人も英語を使っています。そしてその人たちの間だけで英語を使ってやり取りがなされることによって、
間違えた表現が修正されたり指摘されたりすることもなく多くの人によって長く使われることもあります。
これによって「文法的に正しくないが、一般的に使用されている」というような扱いになる表現が多くなることも予想されます。
言葉は生き物です。ゆっくりかもしれませんが、言葉が変わり続けていることは確かなのです。

話題 (その他・英語に関係ないもの)

他の人に話したり説明したりしなくても、ある程度理解したり察したりして欲しいと思ったことはないでしょうか。
親しい友達や家族の間であれば、そういったことをより感じるのではないでしょうか。
何が好きかとか、何を大切にしているか…などは長く一緒に過ごしていれば特に説明をしなくても自然とわかってくるもののように思えます。
同じようなことを、ある漫画家の人がTV番組で言われているのを聞いたことがあります。
奥さんの体調が悪いことを知っていれば、「〇〇をして欲しい」ということを言葉にして旦那さんに直接伝えなくても、ある程度察して夕飯を買ってくるなどして欲しかった…というような内容でした。
このようなことは日本だけでなく他の国でも一緒なのでしょうか。

「カオナシ」という言葉を聞いたことはありますか。
スタジオジブリのアニメ「千と千尋の神隠し」の中に出てくるキャラクターです。
カオナシは「ウー」とか「アー」とか言うだけで、意味があるような言葉は発しません。
フランスでこのアニメが公開された時に、フランス人にはこのカオナシがなんとなく理解できる存在だったようなのです。
カオナシが理解できるのであれば、フランス人の感覚は日本人の感覚と近いのかもしれません。

一方、アメリカでこのアニメが公開されると、アメリカ人にはこのカオナシが「理解できない不思議な存在」だったという話を聞きました。
「言いたいことがあれば言ってくれ。言ってくれなければわからない」というのがアメリカ人のようなのです。
アメリカでは、「言わなくても察してよ」ということは通じないようなのです。言いたいことがあればはっきり言うということが大切になります。
逆に言うと、言わないと通じないのがアメリカなのです。だからアメリカ人にとって、はっきり話さないカオナシは理解できない存在なのです。
アメリカ人と結婚した日本人から「毎日 I love you. と言うことを要求される」という話をよく聞きます。
アメリカ人は、「察するということは苦手で、言わないと理解してもらえない」と思えばこの話も納得いく話です。
アメリカ人と一緒に仕事をしたり生活したりする場合は、「言いたいことがあれば発言する」「してもらいたいことがあればはっきり言う」と言うことが大切になってきます。

話題 (その他・英語に関係ないもの)

アンサング・シンデレラ Unsung Cinderella
 
  
石原さとみさん主演、フジテレビ系で放送中TVドラマ「アンサング・シンデレラ 病院薬剤師の処方箋」の話題です。
 毎回引き込まれて涙しながら観ています
 (2020年8月現在)
 今回は、ドラマのことではなく、タイトルの中の英単語 「Unsung [ʌnsʌŋ アンサング」について少し説明します
 興味があれば別ですが、中学生は覚える必要はありません
 辞書で unsung を調べると、[形容詞]として出てきます。「 歌われない、歌にされない」「たたえられることのない」といった意味になります。
 unsung heroes and heroines: 「称えられることのない [無名の]功労者たち; 縁の下の力持ちたち」
 
 ドラマの内容を考えると、ドラマのタイトルの「アンサング」は「たたえられない、縁の下の」といった意味でしょうか。
 「unsingの過去分詞形」という説明がないので、unsing という単語を辞書で調べてみました。
 手持ちのいくつかの辞書には出てきませんでしたが、インターネットでは、いくつかのサイトが見つかりました。
 [接頭語] un + sing (歌う)… unsing ⇒ unsangunsung
  ※もともと unsung は「Fried Chicken 方式」で unsing という単語がもとになっていると考えられますが、
 unsingunsang は次第に使われなくなり unsung だけが生き残ったような感じがしています。
 unsingに関しては全く覚える必要がありません。何かの文章の中で見かけた場合は、インターネットなどで調べれば十分です。
 
 それにしても、石原さとみさんは、「アンナチュラル」(UNNATURAL DEATH) …2018年TBS系で放送のTVドラマ」にも
 出演され「アン」で始まる TVドラマ主演が続いてますね …(^^♪
  

単語の輪を広げよう
 unnatural [ʌn-nǽtʃərəl]「不自然な, 異常な、 異様な, 超自然的な」
  ※ natural の前についている un は[接頭語]と呼ばれ、natural ⇒ unnatural のように、単語の頭(前)に付けると反対の意味になったりします
   日本語では、同じようなものに「」などがあります(論理的 ⇔ 論理的 / 解決 ⇔ 解決 / 肯定 ⇔ 定 / 自然 ⇔ 自然)
  ※単語の後ろに付ける[接尾語]というのもあります。
   [接頭語]・[接尾語]コチラ
 ・look up a word in a dictionary「辞書で言葉を調べる」
 
   

文法

[中学][高校]
明らかにわかるものは省略

 ファストフード、ファミリーレストランの「マクドナルド」や「デニーズ」、「ジョナサン」などが、
 日本語ではなく英語でどのように書かれているのか気を付けてまじまじと見たことはあるでしょうか。
 これらのつづりに特に興味のない人は正しく書いたり覚えようとしたりする必要は全くありません見てほしいのは最後の部分なのです。
 たぶん多くの人はこのようなつづりになっていることに気が付いていないのではないでしょうか。

 … はっきり覚えていない人は、ちょっと予想してみてください。

 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 

 正解は…

 ・マクドナルド ⇒ McDonald's
 ・デニーズ ⇒ Denny's
 ・ジョナサン ⇒ Jonathan's

 どうでしたか?
 下に写真を載せましたが、お店を見かける機会があったら確認してみてください

 最後の「’s」(アポストロフィー エス) の部分は何でしょうか
 実は、3つとも「’s」の後に「restaurant」という語が省略されているのです。略さないで書くと次のようになります
  ・マクドナルド ⇒ McDonald’s restaurant … マクドナルドのレストラン
  ・デニーズ ⇒ Denny’s restaurant … デニーのレストラン
  ・ジョナサン ⇒ Jonathan’s restaurant … ジョナサンのレストラン
   ※ restaurant [réstərənt]「料理店, 食堂, レストラン」
   ※「’s」は「~の」「~の所有する」というような意味になります。このように英語でも「明らかにわかるもの」は通常省略されるのです。
 
 ▢ 教科書の例 (NEW CROWN) ※ 中学の教科書でも出てきています
 
 ・Some Japanese habits are different from other countries'
  日本の習慣の中には、ほかの文化のものとは異なるものがあります。
  ※ habit: 習慣、くせ
  be different from: [重要熟語]「~と違っている」… 詳しくは ⇒ コチラ
  ※ countries’ の後ろに habits が省略されています。
   ※ テストを作成する人の立場に立つと「省略されている語(句)を書きなさい」… なんて出したいでしょ。
 

単語


※ 2021年08月27日 見やすくするため全体のレイアウトや表示を変えてみました。
お店の表示

▢ お店の前や店のドアに「営業中」「準備中」という表示を見たことがあると思います。

・・中には、英語で「OPEN」や「CLOSED」という表示にしているお店も見かけます。

● この英語の表示ですが、表示の前に「We’re」(= We are)という言葉が省略されています。
・・[主語]+[be動詞]が省略されることはよくあります
●「CLOSED」の代わりに「CLOSE」と表示されているのを見かけることがありますが、CLOSE」は誤りになります。

open [óupən]
[形容詞]「<店・銀行などが> 開いている, 営業中の」
[動詞]「を開ける, 開く」
・・※ [形容詞] の詳しい説明は ⇒ コチラ
・お店の「省略していない表示」 We’re open. は「私どもは営業中です」となります。
・・※ この場合の open は[形容詞]となります。この open は名詞の前ではなく be 動詞の後ろに置かれるのが通常の使い方になります。
・・・(The store is open. と言っても、It is an open store. という言い方は通常しません)

close [klóuz]
[形容詞]「近い, 接近した」
[動詞]「<店・工場などを>(一日の仕事を終えて) 閉める」

closed [klóuz] [形容詞]「閉店の, 休業の」

・お店の「省略していない表示」 We’re closed. は「私どもは閉店しました」となります。
・・※ これは、次の3つのとらえ方ができます。
・・・ ① [動詞] close の[過去分詞形]で We’re closed. は[受け身]で「私どもは閉められています」⇒「閉店中」
・・ ・② closed は「閉店の, 休業の」という[形容詞] ⇒「私どもは閉店しています」
・・ ・③ closed は [動詞] close の[過去分詞形]で[形容詞]のようになったもの … Fried Chicken の項目参照 ⇒ コチラ
・・・・ ※ ③ のように考えれば、closed という[形容詞]を別に覚えなくても、[動詞] close の応用として使うことができます

・・そこで、「We’re close.」という表現に関してです。
・・be動詞の後ろに[動詞]の原形が続くことはありえないため、close は[形容詞]ということになります。
・・ところが、close の[形容詞]には「閉店の」という意味はないため、この表現は「私どもは近いです」というような意味になってしまうのです。


話題 (その他・英語に関係ないもの)

英語を学ぶ環境
英語を学ぶ環境は、以前に比べかなり良くなってきているのを感じます。まず、英語を学ぶための機器がいろいろ出てきています。
以前はカセットテープだったのが、CDもあればメモリープレイヤーもあります。カセットテープと違って、聞きたい部分をそれほど時間をかけないで探しだすことができます。
TVで放送している映画も以前は吹替のものがほとんどでした。今は吹替の映画でも音声を英語に切り替えることも可能です。
以前使っていたビデオテープは英語の映画を借りてきても英語でなんといっているのか聞き取るのが一苦労でした。
クローズドキャプション(closed caption)と呼ばれる聴覚障害者用の信号が入ったビデオもありましたが、2万円近い専用の機械をビデオとTVの間に入れると英語の字幕を表示させることが可能でした。
DVDやBlu Rayは、音声や字幕を切り替えて英語で聞いたり英語の字幕を見るのも可能になっています。
辞書と言えば紙だけの時代は終わり、電子辞書もあればインターネットの辞書のサイトで検索も可能です。
スマホの無料の辞書アプリでは単語の発音もしてくれます。
インターネットでは英語の質問があれば回答してくれるサイトもあります(必ずしも回答が正しくないことも理解はしておくべきです)。
翻訳サイトでは、入力すればアッという間に英語を日本語にしたり、日本語を英語にしたりするサービスもあります(入力した情報が翻訳サイトに筒抜けなので注意が必要です)。
翻訳サイトを使っている人の英語などを見ると翻訳の制度も以前と比べかなり上がってきている印象があります。
私の場合は遊びで翻訳サイトを使うこはあっても、英文を作るのに翻訳サイトを使うことはありません。
また携帯できる翻訳装置も購入できるようになりました。TVの通販番組の様子を見ると少し怪しい翻訳の場合もありますが、使えるレベルに思えます。
一対一なら強みを発揮しそうですが、会議などで使うのはまだ難しいような印象があります。
小学校でも英語の授業が始まり、中学・高校では日本人の先生だけでなくアメリカやイギリスなどからの先生から授業を受けることもできるようになっています。
英語の教材も様々あります。英文で書かていますがわかりやすい参考書がいくつかあります。
それらは学校では習ったことがない「目からうろこ」の納得できる説明で書かれていて、実際に英語を使う時にかなり参考になるものです。
本屋に行っても参考書などがあふれかえっています。
このように書き出したら、きりがないくらい英語を学ぶ環境は本当によくなっています。
ただそれらを利用するにもほとんどの場合は、ある程度のお金が必要です。経済的に厳しい場合は、どうしても「実際に存在する英語を学ぶ環境」を十分利用できないことが考えられます。

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話題 (その他・英語に関係ないもの)

一意専心 ②」 の続き

一つのことに集中した方がいいことはわかっていたとしても実践するのは意外と難しいのです。脳にとっては複数のことを同時に全て集中して行うことは難しいのです。逆に一つのことだけに集中することも大変なのです。例えば、頭の中で数字を数えることを考えてみます。口に出して数えてはいけません。頭の中だけで数を数えることだけに集中します。1から順番に2、3 …10まで数える。もし、数えている途中で「数えること」以外のことが頭に浮かんだら、また最初の1から数えなおさなければならないこととします。簡単だと思うかもしれないが、これが意外と難しいのです。おそらくほとんどの人が10まで数えることはできないのではないでしょうか。すぐに「数を数える」こと以外のことが頭に浮かんできてしまいます。同じようなことが英語の聞き取り試験の間にも起こったりします。自分では必死に集中して英語を聞き取ろうとしているのに、英語を聞いている間に英語の試験とは全く関係ないことが次から次へと浮かんでくるのです。

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「無心」になることはそれほど大変ではありません。何かを眺めてただボーとすればいいのです。砂浜に座って波の音を聞きながらボーと海を眺めているだけでいいのです。何も考えていないような無の状態になることができます。人間としての能力的な問題とは別に意識を変えて努力しなければならないことがあります。

映画やTV番組は、もしそれらを十分楽しみたいと思うのなら他のことをしないで専念して観た方がいいのです。それを十分理解しているのに、ついつい他の作業などをしながら観てしまうことがあります。食事も集中した方がいいとわかっていたとしても、ついついTVを見ながらの食事になってしまったりしてしまいます。ジョギングは歩くのと同じで繰り返し行っていると意識しないでもできるようになるものです。健康のためとかダイエットのためにだけにジョギングを行っているのならそれでもいいように思えます。それでもヒザや他の箇所に問題を抱えている人の場合は、足の運びや着地、腕の振りなどを意識し、走ることに集中した方がいい場合もあるように思えます。ただ走るだけではどうしても単調になってしまいます。少しでも楽しく長く続けられるよう音楽を聴きながら走るのが習慣となっている人も大勢いるのではないでしょうか。

以前ジョギング中に転んで胸と頭を打ったことがあります。あばら骨にヒビがが入っていたようで、1か月ほどは笑った時やくしゃみをした時に痛みがあったことを覚えています。転倒した時は、ジョギング中にトイレに行きたくなりました。どこで道路を渡って折り返そうかと考えながらいつもより車道に近い歩道を走っていた時に工場の中から出口に向かって動きだすトラックが目に入ってきました。その車の方に顔を向け注意を払っている時に車道側の足を縁石に引っ掛けてしまったのです。ちょうど「柔道の技」をかけらたような感じで、体が倒れていくのはわかったもののどうすることもできず転んでしまいました。毎日走っている慣れたコースなのにこけてしまったのです。後から思うと、いつもと違う条件が重なり、その時たまたま注意をそらされることがあったのが原因のように考えました。

一意専心という仏教の教えのことを知り、自分なりにどういうことなのか理解して実践しようと努力してきてもうずいぶんな年数になります。これまた奥が深く、死ぬまで「よしできた」と思うことはないような気がしています。ただ、毎日を何となく生活するより、「一つのことに集中する」ということだけでも、それについて考えたり実践しようと努力することで、生活や人生がより良いものになっているような感じがしています。ジョギングで転倒してからは、階段を降りる時は、心の中で「階段を降りることだけに集中」とつぶやきながら階段を降りるようにしています。以前ならたとえ階段の途中で足を踏み外しても一番下まで飛び降りて無事でいることができたかもしれません。ただ現在は体力や身体的能力も以前ほどなく、誤って足を踏み外すと大怪我になるかもしれないためです。

「歩きスマホ」をしていても、たまたま怪我をしていない、たまたま人に怪我をさせていないことが続いているだけなのかもしれません。問題を引き起こす可能性や危険性を含んだ「歩きスマホ」のような行動を人類が続けていけば、もしかしたら同時にいくつかのことを問題なくこなせるように人間の脳が進化していくのかもしれません。ただ現時点では人間の脳はそこまでの能力はないようです。何かが起こってから後悔しないよう、「一つのことに集中すること」を少し気に留めてみませんか。

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集中力について考えてみることは非常に興味深いことです。前の項で「頭のなかで1から順番に数えること」を書きましたが、数えている間にも関係のないいろいろなことが頭の中に浮かんできます。「邪念」とか「雑念」とかいうたぐいのようなものがわざと集中力を妨げようとしているような感じさえします。英語のリスニング試験の時にも集中しようとしている心とはうらはらに全く関係ないことが次から次へと浮かんでくることがあります。考えないようにしようとしてもあまり効果がありません。集中しようとすればするほど、逆に関係のない余計なものが浮かんできたりしてしまいます。

そういった集中を妨げるものは「悪いモノ」のようにとらえがちですが、本当のところはどうなんでしょうか。脳に備わっている機能なので、あながち悪い面だけではないようにも思えます。これは脳科学などの知識は一切ないので勝手な推測になってしまいます。もし、そういった余計な考えが一切浮かばず一つのことにすぐ集中でき、その集中を長く継続できたらどうでしょうか。一見素晴らしいことのように思えます。ただ、同じことを長時間続けることは脳の同じ部分を長時間にわたって酷使することにはならないでしょうか。そしてその酷使によって脳がダメージを受けたり危険な状態に陥ってしまう可能性はないのでしょうか。夢中になって何かをしていると、多少外部から刺激があっても気づかなかったりすることがあります。例えば、ヘッドフォンなどで耳をふさいでいるわけでもないのに集中していると誰かに声をかけられたりしても気づかなかった…という経験はないでしょうか。そういった集中している状態から抜け出すキッカケはどういうものなのでしょうか。「歩きスマホ」をしている時に、あまりにもスマホに集中していると周りの気配や危険に全く気が付かなくなるのではないでしょうか。脳が適度に気を散らしてくれることにより、そういった「一つのことに極度に集中すること」を防いでくれているように思えます。

一般に子供は一つのことに集中できる時間が大人と比べて短いと言われています。子供に何かを教える時はこれを考えて、1回の授業で一つのことを長くさせるのではなく、子供たちが興味を持てるゲームなどをいくつかさせる必要があります。次から次へと新しいことをして飽きさせない工夫が必要なのです。これに対して大人はじっと机に座って比較的長く同じことをし続けることが可能です。年齢を重ねたり訓練することによって集中できる時間は長くすることができるかもしれませんが、子供が一つのことにをあまり長く集中できないのは脳の防御機能なのかもしれません。

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大人もそうですが、特に子供は夢中になると他のことが目に入ってこない傾向にあります。車を運転している時に、路地からボールを追いかけて子供が急に飛び出してきてヒヤっとした経験はないでしょうか。夢中になると他のことが全く見えなくなる…子供のいいところでもあり大人が注意してあげなければならないところでもあるように思います。

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やる内容によって必要な集中力の度合いが異なってきます。友達と普通に会話する時はそれほど集中力は必要ありません。一方、英語を勉強している人が少しレベルの高い授業を受けるためにはかなりの集中力が必要になったりします。先生や同じクラスの人がなんと言っているのか聞き取るために全神経を使わなければならないこともあります。初めてTOEIC(トーイック)の試験を受けた時は開始から終了までの2時間ずっと集中しなければならないため、終わった時はクタクタになっていた…という経験をした人も多いのではないでしょうか。

「目の前の一つのことに集中する」ことは大切なことだとわかっている人も大勢いると思います。ただそれを実践するのは難しいことです。集中しようという自分がいます。また同時に集中させないようにしている別な自分もいるからです。起きてから寝るま集中し続けることはほぼ無理なことです。怪我をしたり命を守るような「ここぞ」という場合は、特に「目の前の一つのことに集中すること」が大切なのではないでしょうか。「一意専心」というような言葉(教え)を知っていて実践しようとするかどうかで人生が大きく変わってくる場合もあるように思えてなりません。

一意専心終わり

話題 (その他・英語に関係ないもの)

この記事は英語とは関係ありません正しいという前提では読まないようお願いいたします
 
 ■「一意専心 」 からの続き

  勉強や作業、ジョギングなどを音楽を聴きながらすることはないでしょうか。
 音楽を聴きながらだと、作業がはかどったり少し苦痛なジョギングも楽しいもののような気になったりするものです。
 音楽を聴きながら何かをしていても、本当に何かに集中すると音楽が聞こえていないことを経験したりするものです。
 どうやら脳は集中していると、それ以外のことは遮断しようとする傾向にあるようです。
 これが同時にいろいろなことをしようとした時に、時に危険な目に遭う原因にもなりうるのです。

  仏教の中に「目の前の一つのことに集中しなさい」という一意専心の教えがあるのは、どうも人間の脳の働きと関係がありそうです。
 人間の脳は複数のことを同時にすることがあまり得意ではないようなのです。
 同時にいくつかのことをしようとすると、全てのことの能率が落ちたり、一部の感覚や能力を落としてしまうようなのです。
 脳科学を勉強しているわけではないので詳しい働きは知りませんが、ある程度のことは経験から推測することができます。

  歩くとか走るといった運動は、繰り返すことによって、特に意識したり考えなくてもできるようになります。
 運動することと、勉強したり何かをじっくり考えたりすることと運動は脳の別なところを使っているようです。
 歩きながら何かを考えていても歩きがぎこちなくなるということはありません。
 いわゆる「歩きスマホ」は、同時に歩く動作とスマホを見たり操作する動作を行っています。
 スマホを操作しても歩く動作は普通にできています。問題はスマホを操作することによって周囲に注意を払う感覚や意識が下がってしまうことです。
 このため「歩きスマホ」をしていてうっかり他の人にぶつかってしまったり、駅のホームから転落しそうになったりしてしまいます。
 二宮金次郎も実際に焚き木をしょって本を読んでいたのであれば今でいう「歩きスマホ」をしているのと同じようなことだったのでしょう。
 従来の二宮金次郎の像は「歩きスマホ」を推奨しているように見えるため撤去されたり座って本を読む像に取り換えるなことも起こっているようなのです。
 ただ、二宮金次郎が生きていた時代のことを考えると、焚き木をしょって本を読むことがそれほど危険なことではなかったのかもしれません。
 山道を歩いていたのなら、足を踏み外して谷に落ちる危険はあったかもしれません。普通の道なら、歩行者がそれほど沢山いたようにも思えません。
 仮に歩いている人とすれちがっても相手がよけてくれたのではないでしょうか。まして自動車とぶつかるようなことはありえなかったことが想像されます。
 世の中の全てのものの動きが現在ほど速くなかったことを考えると、二宮金次郎が生きていた時代に、
 仮に彼が「歩きスマホ」をしていたからと言って大きな問題にはならなかったのではないでしょうか。
 何かに気づきゆっくり反応しても十分に間に合うような時代だったのかもしれません。

  それに対して現在は、車や電車が近づいて来ているのに気づかず反応がほんの少し遅れただけでも大きな怪我をしてしまったり、車の運転中や自転車に乗っているときに、
 少しスマホに目をやっただけで数メートル~数十メートル進んでしまっています。気づく前に既に何かにぶつかっていた…と言うことも十分考えられます。
 常に神経を集中していないと自分が怪我をしたり他の人に怪我をさせてしまったりするような時代だからこそ、この教えはより重要になってくるのではないでしょうか。
 
   

  「一意専心 ①」で自分が風邪を引いた時のことを書きました。風邪で休むと他の人に迷惑がかかるから休めない…と思い休めない人もいると思います。
 誰かが長い間休まないことを前提に職場の仕事が割り振られているため、
 仮に「風邪などで休んだ時に他の人が変わってやってくれない」というのも休めない理由になっていないでしょうか。
 体調が悪くて休むと休んでいる間に遅れた仕事は結局自分でがんばって取り戻すしかない…このような職場や会社が多いように思えます。
 自分の体調だけでなく子供が風邪をひいたときに仕事を休んでも同じようなことが起きます。子供はちょっとしたことで体調を崩しやすいものです。
 「忙しい時なのに、なんで子供の風邪ぐらいで休むんだよ」とか思っている人はいないでしょうか。
 同僚どころか会社で立場的にある程度上の人まで同じような考えの場合は厳しいものがあります。
 「子供は社会全体で育てる」とか「社会全体で利益になるのであれば目の前の小さい利益にはこだわらない」という大きな目を持った会社であれば
 子供が風邪をひいてもそれほど気にしないで休めるのでしょうが、そういった大きい目を持った会社ばかりでもありません。
 風邪は栄養のあるものを食べてゆっくり寝ていれば治るものなのですが、会社を長く休めないので子供が風邪を引いたときは、早く治すように病院に連れて行きます。
 お医者さんに、風邪には全く効果のない「抗生物質」を処方するようにお願いしたりするのです。医者も効果がないことを知っていても、
 しつこく言われ、それで納得してもらえるのなら…と意味のない抗生物質を安易に出してしまいます。
 こうして抗生物質を乱用することにより、抗生物質の効かない新たな耐性菌を生み出すという社会的な問題になるのです。
 一意専心の教えのとおり社会全体が「体調が悪いときはゆっくり寝ていましょう」であればこういう問題は少なくなっていくのです。
 風邪で休む人が悪いのではなく、風邪ぐらいでは休ませてくれない社会が悪い 「一意専心」という教えと新型コロナが私たちに伝えようとしている一つはそこではないでしょうか。
 
   

一意専心 」 に続く

話題

この記事は、気分転換にでも読んでいただけたらと思います。漢字四文字の言葉です。「あっそ」で終わりかもしれません。自分にとって人生を変えるような「教え」になるかもしれません。考え始めると奥が深く、何年考えても結論的なものは出ないかもしれません。興味があったら深く考えて自分なりに実践してみるのも悪くないと思います。 

▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢

インターネットで調べてもらえばわかりますが、一意専心とは「他に心を動かされず、ひたすら一つのことに心を集中する」という意味です。一見、簡単なことのように思われる方もいるかもしれませんが、いざ実際実践しようとすると、これが意外に難しいものなのです。

一意専心は、もともと仏教の教えのようで「目の前の一つのことに集中しなさい」ということらしいのです。例えば、「食事をする時は食事をすることに専念」し、「病気の時は病気の治療に専念」するということです。TV番組で、永平寺などでお坊さんが修行をしている中で、食事の時は会話をすることは許されず、みんな無言でもくもくと食事をしているのを見たことがないでしょうか。実践するとこのようになるのでしょう。この光景を見ると「これは修行している人に限ったことで一般の人には関係ないんでしょ」と思う人もいるかもしれません。

私も最初にこの話を聞いた時は、食事は話しながら楽しく食べた方が消化にも良いと聞いたこともあり、本当なのか疑問に思ったのを覚えています。それではまず食事について考えてみましょう。現在のようにみんで会話をしながら食事をするようになったのはそれほど昔のことではないように思われます。明治維新になり西洋文化が入ってきて、TVなどでアメリカの文化や習慣に触れるようになってから、日本の食卓でも同じように楽しくおしゃべりしながら食事をするようになってきたように思われます。それまではどうだったかと言うと、どこの家庭でも「食事は黙って食べるもの」「食事中は黙っているもの」だったのではないでしょうか。

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修行

確かに黙って食事に集中した方が、料理の中のそれぞれの素材のうまみや味付けをより感じることができ、食事そのものを楽しむことができるような気がします。食べたことのないような高級フレンチやあまり口にできないマツタケ料理、高級なうな重などは、ワイワイにぎやかに会話して食べるというより、誰かがそう言うわけでもないのに、みんな自然と黙って食事に神経を集中して味わうように食べるのではないでしょうか。目をつむって食べる人さえいます。中山秀征さんは番組の中で、おいしいものを食べる時は目をつむって味わうように食べているのをよく見かけます。目をつむって目から入ってくる情報を遮断した方がより味覚に集中できるのでしょう。「食事をする時に会話をした方がいいかどうか」をいろいろな人に聞いてみたことがあります。「おいしくないモノは会話した方が味がわからなくていいのでは」という意見もありました。フランス語を勉強している人によればフランスでは、食事中に実際食べているものの話をするそうです。食材や調味料に何が使われているとか、どうしたらもっとおいしくなるか…などを話しながら食事をするらしいのです。仕事が忙しく何か作業をしながら食べ物を口に入れていく…生活するためのエネルギーを体内に入れているだけで食事を楽しんでいたり味わっているようには思えません。昼食をとりながらのミーティング…会社の上の人の考えかもしれませんが、おいしい食事が会社から提供されたとしても食事を楽しんで味わって食べられるのでしょうか。

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食事

食事に限らず、他のことでも一つに専念・集中するかどうかで充実度が変わってくることが多いように思えます。お笑い番組でさえ、他のことはしないで集中してみた方がより楽しむことができます。家で映画を観る時は、何か他の作業などをしながらだと映画があまり楽しめなかったりします。映画自体を楽しみたいのであれば、他のことは何もしないで映画を観ることだけに専念・集中した方いいようです。その意味では映画館に行った方が映画を観ることに専念でき映画を楽しめるように思えます。好きな歌手やアーティストのライブコンサートも実際に現地で観た方が集中している分より楽しめるかもしれません。

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コンサート

それでは、病気の時は病気を治すことに専念できるのでしょうか。重い病気や怪我などをしたときは仕事や他のことをしている場合ではありません。病気や怪我を直すことに専念せざるをえません。普通の風邪を引いたときはどうでしょう。仕事がいっぱいたまっていて、休むことによって他の人に迷惑をかけたり、治って出社した時に自分が余計大変なことになることを考えると多少つらくても仕事をしてしまわないでしょうか。一意専心の教えによると、このように「風邪を引いた時でも治療に専念すべき」なのだそうです。疑問に思う人も多いと思います。私も「理想をとなえる教え」と「現実」は違うものだと思っていました。

新型コロナウィルスにより、いろいろなものやものの考え方が変わってきています。それまで常識だと思っていたことがそうではなく、当たりまえのようにできたことができなくなってきています。「風邪をひいてもたいしたことがなければ出社して仕事すべき」というのは、「少しでも風邪のような症状があれば出社しないで自宅で療養しなさい」となってきています。「多少の風邪で休むのは悪いこと」ではなく、「多少の風邪なら仕事をすべきという社会全体の考え方がおかしかった」のではないでしょうか。

「みんなと楽しく会話をしながら食事する」は、「食事中は会話しないでください」になってきています。学校の給食の様子を紹介するニュース番組では、昔の日本のようにみんな黙って黙々と食事をする映像が写しだされていました。それを見たアナウンサーが「会話しないでもくもく食事するのはさみしいですね」と言うと、別なアナウンサーは「食事を味わってたべられるのもいいのでは」と言っていました。

欧米のいろいろな習慣や考え方などが明治維新以降どんどん入ってきました。「なんでも日本より欧米の方がすぐれている」という考えが多少なりとも根底にあったように思えます。「本当に欧米の考え方の方が優れているのだろうか」「当たりまえと思っていることが本当に当たりまえなのだろうか」と改めて考える時がきているのかもしれません。

新型コロナでいろいろな大変なことが起きています。ただ、新型コロナによって、今まで疑問にさえ思わなかったことが本当に当たりまえなのかどうか考える機会を与えられているかのようにも思えます。せっかく考える機会を与えてもらったのに、新型コロナの危機が去ったとたんに、ほとんどの人は、まるで何事もなかったかのようにまた前の生活に戻ってしまうのでしょうか。

一意専心 」 に続く