※[注意] この記事は英語と関係ありません。この記事を正しいという前提で読まないようにしてください。
▢ 水戸黄門
「時代劇を好きな人に悪い人はいない」… 毎日のように通っていたラーメン屋のマスターの言葉です。
時代劇というのは、悪代官や悪徳商人といった悪い人と、水戸黄門のような良い人が登場します。
番組の最後では、悪い人たちが良い人たちによってコテンパンにやっつけられるというのが定番のパターンです。
それを見てスカッとした爽快な気分になるのが時代劇なのです。
もしそれを悪い人が見ていたら、「自分たちと同じ仲間がやられるのを見て楽しいハズがない」と言うのがマスターの理論でした。
「なるほど…そういう考え方もあるのか」と思っていましたが、最近は何やらそうでもないような感じがしているのです。
まず、以前ほどTVで放送されなくなった「時代劇」について考えてみたいと思います。
多くの時代劇では、悪代官や悪徳商人に代表される悪い人たちと、正義の味方の代表である水戸黄門のような良い人たちが登場します。
水戸黄門などが登場するまでは、悪徳商人は悪代官にワイロを贈って自分に都合よく物事が動くよう便宜を図ってもらっています。
悪徳商人にはお金があるので、用心棒を雇うことができます。仮に一般の町人などがたてついて来てもその用心棒を使ってすぐに蹴散らすことができます。
町民が、代官所に「悪い奴がいる」と泣きついていっても悪代官は悪徳商人の味方です。
弱い立場の善良な町民や商人は、理不尽なことが行われていてもその地域で権力を持っている人たちが
その理不尽なことを行っている側の人間なのでどうすることもできず泣き寝入りするしかないのです。
そこへ、旅でやって来るのはご老公(水戸黄門)一行です。その町に滞在する間に、宿の人や町の人から
悪徳商人や悪代官の悪行についてを耳にすることになります。この時点ですぐに悪い奴らの成敗を行うことはありません。
聞いた話が本当かどうかを、弥七という「忍び」のように行動することができる者や連れの人たちを使って情報収集をします。
そして、悪行を行っているという動かぬ証拠を手に入れるのです。
そしていよいよ悪い人たちとの対決へとお話は進んでいくのです。
ここで注意しておきたいことがいくつかあります。
一つは、水戸黄門は町人などから代官の悪行について聞いたからと言ってすぐに悪人をやっつける行動をすることはないのです。
必ず真実かどうかを調べ、聞いたことが間違いないことを確認し、動かぬ証拠を手に入れてから行動に移すのです。
次に注意したいのは、水戸黄門は登場人物の中で一番の権力を持っています。時代劇の中では弱い庶民の味方で、正しい行いをします。
現実の世界はどうでしょう、権力を持っている人が必ず正しい行いを行い、いつも弱い者の味方なのでしょうか。
また、時代劇で視聴者はTVを観ているので誰がどういうことをしていて誰が悪いのかを全て知っています。
これは当たりまえのことのように思えますが、注意したいのは現実社会ではこのようなことはまずありえないのです。
私たちが知っているのは、ほとんどの場合事実の一部のことです。しかも知っていると思っている「真実」と言われるこも必ずしも正しいとは限りません。
世の中には、自分の利益のために平気でデマや嘘の情報を流したりする人さえいるのです。
注意したいことはまだあります。時代劇では、悪い人と良い人ははっきりしています。
現実はそれほど単純ではないようです。悪いことをしていそうにないような人が悪いことをしていたり、
逆に悪いことをしているように言われているような人が実は何も悪いことをしていないどころか弱者の味方だったりします。
「権力を持っている者」と聞いた時に、誰を思い浮かべるでしょうか。政治家とか大企業のトップや大金持ちと言うような人でしょうか。
自分がこの「権力を持っている者」に該当すると思っている人はそれほどいないように思われます。
実際はどうなのでしょうか。SNSなどの登場で多くの人がこの「権力」に近いものを持っているような気がしています。
そしてこの「権力」を持った人たちは、弱い庶民の味方で、正しい行いをしている人たちなのでしょうか。
その人たちが、何か「悪い」と思えるものを聞いたり見つけたりして、その人たちに対して意見を言う時に
水戸黄門のように、知りえたことが間違いないか、真実かどうかちゃんと確認をしているのでしょうか。
「あること」が正しいかどうかを個人の力だけで確かめるのはそれほど簡単なことではありません。
現実の世界では、TVを観ている時のように全てが「お見通し」のような状態であることはまずありえないのです。
時代劇を観て、ご老公様が悪人をコテンパンにやっつけるのを見るのは爽快なものです。
ご老公様と同じように自分も悪人をやっつけてやりたいと思う人がいても不思議ではありません。
というより、このような感情がわいてくるのはごく自然なものなのかもしれません。
機会があれば、自分も「正義の味方」になりたいと思っている人はいると思います。その考え自体は悪いことではないように思います。
問題はその考えが、正しくないところで使われることのようです。場合によっては、悪いことをしたのかどうかまだはっきりわかっていないうちに
悪いことをしてそうな人を非難したり、攻撃したりする場合があります。映画「望み」を観ていただければこのことがよくわかると思います。
ほとんどの人は、ご老公様のように自分に代わって事実を確かめてくれる信頼のできるお供の者も忍びの人もいません。
たとえインターネットなどで調べたり確認したりしたとしても、調べた結果が必ずしも正しいことばかりとは限らないのです。
では、なぜ人は物事が正しいとか間違えているとかはっきりわかる前に行動に移してしまうのでしょうか。
このことが、正義の味方のつもりで行動しているのに、知らず知らずのうちに「悪代官や悪徳商人のような行いをしてしまっている」ことがある
ような気がしてなりません。
このようなことに陥らないためには、フランスの作家ジャン・ジオノの短編小説『木を植えた人』がヒントになるかもしれません。
この小説に出てくる人のようでいることが一つの方法ではないかと思っています。
何か人生をかけて打ち込むことを持っていれば、他の人や世の中のさまざまな出来事にまどわされたり自分の行動が影響されたりすることなく、
いつも同じように自分の信じたことだけを淡々と行っていくことができるような気がしています。