一意専心(いちいせんしん) ①
この記事は、気分転換にでも読んでいただけたらと思います。漢字四文字の言葉です。「あっそ」で終わりかもしれません。自分にとって人生を変えるような「教え」になるかもしれません。考え始めると奥が深く、何年考えても結論的なものは出ないかもしれません。興味があったら深く考えて自分なりに実践してみるのも悪くないと思います。
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インターネットで調べてもらえばわかりますが、一意専心とは「他に心を動かされず、ひたすら一つのことに心を集中する」という意味です。一見、簡単なことのように思われる方もいるかもしれませんが、いざ実際実践しようとすると、これが意外に難しいものなのです。
一意専心は、もともと仏教の教えのようで「目の前の一つのことに集中しなさい」ということらしいのです。例えば、「食事をする時は食事をすることに専念」し、「病気の時は病気の治療に専念」するということです。TV番組で、永平寺などでお坊さんが修行をしている中で、食事の時は会話をすることは許されず、みんな無言でもくもくと食事をしているのを見たことがないでしょうか。実践するとこのようになるのでしょう。この光景を見ると「これは修行している人に限ったことで一般の人には関係ないんでしょ」と思う人もいるかもしれません。
私も最初にこの話を聞いた時は、食事は話しながら楽しく食べた方が消化にも良いと聞いたこともあり、本当なのか疑問に思ったのを覚えています。それではまず食事について考えてみましょう。現在のようにみんで会話をしながら食事をするようになったのはそれほど昔のことではないように思われます。明治維新になり西洋文化が入ってきて、TVなどでアメリカの文化や習慣に触れるようになってから、日本の食卓でも同じように楽しくおしゃべりしながら食事をするようになってきたように思われます。それまではどうだったかと言うと、どこの家庭でも「食事は黙って食べるもの」「食事中は黙っているもの」だったのではないでしょうか。
確かに黙って食事に集中した方が、料理の中のそれぞれの素材のうまみや味付けをより感じることができ、食事そのものを楽しむことができるような気がします。食べたことのないような高級フレンチやあまり口にできないマツタケ料理、高級なうな重などは、ワイワイにぎやかに会話して食べるというより、誰かがそう言うわけでもないのに、みんな自然と黙って食事に神経を集中して味わうように食べるのではないでしょうか。目をつむって食べる人さえいます。中山秀征さんは番組の中で、おいしいものを食べる時は目をつむって味わうように食べているのをよく見かけます。目をつむって目から入ってくる情報を遮断した方がより味覚に集中できるのでしょう。「食事をする時に会話をした方がいいかどうか」をいろいろな人に聞いてみたことがあります。「おいしくないモノは会話した方が味がわからなくていいのでは」という意見もありました。フランス語を勉強している人によればフランスでは、食事中に実際食べているものの話をするそうです。食材や調味料に何が使われているとか、どうしたらもっとおいしくなるか…などを話しながら食事をするらしいのです。仕事が忙しく何か作業をしながら食べ物を口に入れていく…生活するためのエネルギーを体内に入れているだけで食事を楽しんでいたり味わっているようには思えません。昼食をとりながらのミーティング…会社の上の人の考えかもしれませんが、おいしい食事が会社から提供されたとしても食事を楽しんで味わって食べられるのでしょうか。
食事に限らず、他のことでも一つに専念・集中するかどうかで充実度が変わってくることが多いように思えます。お笑い番組でさえ、他のことはしないで集中してみた方がより楽しむことができます。家で映画を観る時は、何か他の作業などをしながらだと映画があまり楽しめなかったりします。映画自体を楽しみたいのであれば、他のことは何もしないで映画を観ることだけに専念・集中した方いいようです。その意味では映画館に行った方が映画を観ることに専念でき映画を楽しめるように思えます。好きな歌手やアーティストのライブコンサートも実際に現地で観た方が集中している分より楽しめるかもしれません。
それでは、病気の時は病気を治すことに専念できるのでしょうか。重い病気や怪我などをしたときは仕事や他のことをしている場合ではありません。病気や怪我を直すことに専念せざるをえません。普通の風邪を引いたときはどうでしょう。仕事がいっぱいたまっていて、休むことによって他の人に迷惑をかけたり、治って出社した時に自分が余計大変なことになることを考えると多少つらくても仕事をしてしまわないでしょうか。一意専心の教えによると、このように「風邪を引いた時でも治療に専念すべき」なのだそうです。疑問に思う人も多いと思います。私も「理想をとなえる教え」と「現実」は違うものだと思っていました。
新型コロナウィルスにより、いろいろなものやものの考え方が変わってきています。それまで常識だと思っていたことがそうではなく、当たりまえのようにできたことができなくなってきています。「風邪をひいてもたいしたことがなければ出社して仕事すべき」というのは、「少しでも風邪のような症状があれば出社しないで自宅で療養しなさい」となってきています。「多少の風邪で休むのは悪いこと」ではなく、「多少の風邪なら仕事をすべきという社会全体の考え方がおかしかった」のではないでしょうか。
「みんなと楽しく会話をしながら食事する」は、「食事中は会話しないでください」になってきています。学校の給食の様子を紹介するニュース番組では、昔の日本のようにみんな黙って黙々と食事をする映像が写しだされていました。それを見たアナウンサーが「会話しないでもくもく食事するのはさみしいですね」と言うと、別なアナウンサーは「食事を味わってたべられるのもいいのでは」と言っていました。
欧米のいろいろな習慣や考え方などが明治維新以降どんどん入ってきました。「なんでも日本より欧米の方がすぐれている」という考えが多少なりとも根底にあったように思えます。「本当に欧米の考え方の方が優れているのだろうか」「当たりまえと思っていることが本当に当たりまえなのだろうか」と改めて考える時がきているのかもしれません。
新型コロナでいろいろな大変なことが起きています。ただ、新型コロナによって、今まで疑問にさえ思わなかったことが本当に当たりまえなのかどうか考える機会を与えられているかのようにも思えます。せっかく考える機会を与えてもらったのに、新型コロナの危機が去ったとたんに、ほとんどの人は、まるで何事もなかったかのようにまた前の生活に戻ってしまうのでしょうか。
「一意専心 ②」 に続く