人の持つ可能性
▢ 人の持つ可能性:
・※ この記事が正しい前提で読まないようお願いします。何かの考えるキッカケになれば幸いです。
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・生まれたばかりの人が持つ可能性は無限大なのではないでしょうか。
生まれたばかりの子が将来、「宇宙飛行士やノーベル賞を受賞するような人物、あるいはプロ野球や、J リーグ選手、
総理大臣や日本を代表するような会社の社長にならない」とは誰も言い切ることはできないのではないでしょうか。
それが成長するにしたがって可能性が少しずつ狭まっていくようです。なぜなのでしょうか。
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・何かを選択することは、可能性を狭めていく性質も併せ持っています。世の中の全てのことに挑戦できればいいのでしょうかが、それは不可能なことです。
たまたま野球に興味を持ち野球を始めれば、J リーガー選手になる可能性は低くなります。
日本では少年野球のチームに入れば、オフはなく一年中野球の練習をすることになるようです。
アメリカではスポーツをする子供は、夏は野球、冬はバスケ…のように夏と冬でそれぞれ違うスポーツをするそうです。
あるプロの選手が全く別な種目のプロに転向したり挑戦したりする話を聞くのも、アメリカでのこういう環境や事情が関係しているように思えます。
日本では、スピードスケートのオリンピック選手が、同じ筋肉を使う自転の競技に夏のオリンピックで出場したりする話を聞いたりすることがあっても、
バスケットボールの選手がプロ野球選手に転向したり、その逆の話を聞くことはまずありえないことのように思われます。
一つの道で一流になるには、ある程度一つのことに集中することが必要で、いくつものことをしようとするとそれぞれが中途半端になってしまうという考えが大元にあるのだと思います。
一つのことを選択するということは、他の可能性を捨てたり犠牲にすることとも言えるのではないでしょうか。
人生は選択の連続です。可能性が無限だった生まれたばかりの子が選択を繰り返していくことで可能性が減っていくのは自然な流れと思われます。
その点、中学・高校での学ぶことは、可能性をなるべく広く残したままにしておくためのモノと考えることもできます。
高校や大学で勉強する数学ほど高度でない中学の数学でさえ、学校を卒業したら全く使わなくなってしまう人も多いのではないでしょうか。
「将来使わないだろう」というだけで、最初から切り捨てしまっていると、いざ何かのきっかけで使う必要が出た時にかなりの時間と努力が必要になってくる場合があります。
普通は学校で習うことのない中国語やロシア語などを、何も知識もない状態から勉強しようと思った時に、何から勉強していいのかさえ分からない場合があります。
それに対して英語は学校である程度習っている為、学校であまり一生懸命勉強しなかったとしても、他の言語に比べれば取り掛かりやすいのではないでしょうか。
・選択や挑戦しないことにより可能性を失ってしまっているケースがあります。もしダンスをしていたら一流になれる可能性がある人がいたとしても、
ダンスに興味を持つ機会が全くなければ、ダンスを始じめることは考えずらく一流のダンサーという可能性はなくなります。
何かに興味を持つには、必ずしも大きなキッカケや理由が必要なわけではありません。
「お兄ちゃんやお姉ちゃんがやっていたから」とか「先生が自分の名前を覚えてくれたから」などが何かを始めるキッカケだったということもよく聞く話です。
何かに興味が持てなかったり、嫌いになってしまう理由も、他人から見ればささいなことである場合もあります。
教師が何気なく放った一言で、その教師が教えている教科まで嫌いになったりすることもあるように思えます。
悪気がなく冗談やからかうつもりで言った言葉で傷ついたり、傷つくまでいかなくても後々まで引きずって嫌になってしまう場合もあるのではないでしょうか。
逆に、あまり好きでなかった教科も、教えてくれる教師によって興味を持ち好きになる場合もあるような気がしています。
・選択することによって可能性が減ってくることを書きましたが、年齢によっても可能性が減る場合があります。
世の中には年齢制限と言うものがあり、年齢と共に可能性も減ったり無くなったりするものがありま
例えば、将棋が好きでプロ棋士になりたいと思っていても、26歳までに四段に昇段できないとプロにはなれないようなのです。
そのような決まった規定がない場合でも、年をとるに従って挑戦するのが難しくなってくることもあります。
人間は、ある年齢を過ぎたあたりから体力や身体的能力が下がってくるものです。ピークの年齢を超えてから何かしらの
プロの選手になろうと思い努力したとしても、現実的になれる可能性はかなり低いのではないでしょうか。
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・可能性を狭めている他の要因の一つに、実際にやってみた時の体験もあるように思えます。
「初めてスキーに行った時に、たまたま天気が悪かった」… など印象が悪かったり、楽しくなかったりすると続けようという気持ちもわかないものです。
実力は努力によってある程度伸ばすことができます。ただ、ある分野では努力だけではどうしょうもないことがあるものです。
例えば長距離走は、いくら努力しても「最初から得意な人にはかなわない」というものがあるようです。
日本人がいくら努力しても、長距離走ではアフリカ出身の選手にはなかなか勝つことができないのには、この「生まれ持ったもの」のようなものがあるようです。
いろいろ試すうちに、「これは好きになれない」とか「これは苦手」というのが自分でも次第にわかってくるため、
それ以上続けたり努力するのをあきらめたりやめてしまうのではないでしょうか。
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・このように書いてくると、人間は生きていくうちにどんどん可能性がなくなっていき、そのうちゼロになっていまうのではないかと思ってしまう人がいるかもしれません。
今まで書いてきた可能性は「ごく一部の人にしかなれないようなこと」で、世の中には特に才能や能力がないとできないようなことばかりではないのです。
望めば何でもできる、何にでもなれる…という可能性は確かにだんだん少なくなってくるかもしれませんが、
普通に努力したり頑張っていれば、なれるものやできることも数多くあります。そのような可能性は、努力や頑張りによって逆に増やすこともできるのです。
好きなことを職業にしようとすると難しい場合があります。ただ趣味という形なら続けることができることはできるのです。
世界一や日本一などを狙わなければ続けられることも多いと思います。
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[2022年01月21日追記]
・2021年、メジャーリーガーの大谷翔平選手 (ロサンゼルス・エンゼルス)がピッチャーとバッターの二刀流として素晴らしい成績を残しました。
最初に彼が、ピッチャーとバッターの両方に挑戦することを言った時に、日本のプロ野球で実績を残した野球評論家のほとんどが、どちらかに絞った方がいいという意見でした。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」…諺にもあるように、両方挑戦すると、どちらも中途半端になり良い成績が残せない、それどころか
プロ野球選手として生き残ることさえ難しくなる可能性があるというのが理由だったように記憶しています。
実際、高校などで素晴らしい成績を残した実力があると思える選手でも、プロ野球でそれほど活躍できないで去っていってしまう人も多いのです。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」… というのは多くの場合は当てはまるように思えます。
逆に言うと、大谷選手のように才能があり、強い「こころざし」を持ち、(ただ「がむしゃら」ではなく)考えて努力をする人には当てはまらないのでしょう。
(※ 大谷選手の才能に関して: 大谷選手は、160キロを超える速球と、わかっていても打てないと言われているスプリットを投げることができます。160キロの速球は努力だけでは投げられない速度なのです)
大谷選手が二刀流に挑戦するという選択をすることで、大谷選手個人の可能性と野球界の可能性を膨らませてくれました。
もし大谷選手が、多くの評論家の忠告的な意見を受け入れて、ピッチャーかバッターのどちらだけを選択(妥協とも言えるるかもしれません)していたら
可能性を一つ減らしていたところでした。最初の部分にも書いていますが、選択をすることは可能性を減らすことにもつながることなのです。
大谷選手のように一見無理のような二つのことに挑戦し、両方で活躍し成績を残すことは、残念ながら全ての人にできることではなく、
才能と強い意志を持ち、考えて努力できる人にだけできることのように思えます。
ただし、日本や世界のトップを目指すのでなければ、意志をもって努力すれば可能性を増やすことは誰にでもできることだということは付け加えておきたいです。
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